0019_21_05_26 水間ロン Mizuma Long

0019 水間ロン

私の息子が仕事で一緒になることがあり、Mikkusu Magazinに興味を持ってくれたことからインタビューを受けてくれた。彼がプロデューサーと企画しロケハンにも同行しながら脚本にも関与した主演作品「燕 Yan」は、台湾と日本の間で分断された親子そして兄弟の間に横たわる心のひだを、撮影監督出身の今村圭佑監督が情感溢れる映像で仕上げた佳作。このインタビューの後に観たのだが、私の生い立ちにも通ずる内容でもあり、とても興味深くそして考えさせられる映画だった。

伊島薫

父は満州で残留孤児になってそのまま大連で育ちました。

伊島 はじめまして。

水間 はじめまして水間ロンです。空(クウ/伊島の息子)くんからお父さんの話を聞いて、凄く興味があったので紹介してくださいってお願いしました。

伊島 ありがとうございます。いろいろネットに上がってる情報は見せて貰っていて、多少調べさせていただいたんですけど、なるべく知らないつもりでいちから話を聞きたいなと思っています。中国と日本のハーフっていうことですが。

水間 厳密にいうと半分ではなく4分の3が中国で4分の1が日本。父親が半分で母親が中国人です。

伊島 お母さんが中国人でお父さんが日本と中国人とのミックスってことですね。中国で生まれたんですか?

水間 中国の大連という町で生まれて生後4か月で大阪に来てそのまま大阪で育ちました。

伊島 お父さんのお父さんは?

水間 日本人です。

伊島 その人が中国にいた時にお父さんが生まれたということだ。

水間 そうです。父親は今80歳になったばっかりで、僕は会ったことないんですけど父方の祖父が満州に行っていて現地の祖母と知り合って父が生まれたらしいです。でもすぐ終戦になって祖父はシベリアに抑留されたみたいで。それから父は満州で残留孤児になってそのまま大連で育ちました。40歳くらいまで大連で育って、大人になってから日本語を覚えたんでいまだにカタコトなんです。その間にも祖父の行方を日本のいろんな所で調べてもらっていたんですけど、身内が見つからないと日本に帰ってこれないみたいでそのまま残留してたんです。40歳を超えたくらいで日本の新聞社が見つけてくれたらしく、たまたま大阪にいるってことがわかって父親はようやく帰還することができました。やっと祖父に会ってみたらその時すでに新しい家族がいて。だけど父もずっと日本国籍の残留孤児として中国で暮らしていて、自分のアイデンティティについても悩んでいて、生きづらかったと思うんです。僕も父親から直接聞いたことはないんですけど、いろんな物語を読んで、中国で育った残留孤児の厳しさはなんとなくわかるんです。だから日本に住むことを決めてそこから日本語も勉強し始めたようです。その時は独身で日本で暮らしていくと決めましたが、言葉の問題もあり中国人の奥さんが欲しいというので、知り合いの紹介で大連にいた母親と知り合って、文通からはじまって結婚したみいです。

中国語で話しかけられてたんですけど反抗して「日本語で喋ってほしい」って、

喋るのは嫌で自分からずっと拒絶してました。

伊島 おじいさんに会いたくて探したら大阪にいることがわかって大阪に行ったということだ。その時すでに新しい家族がいたということはかなり前に日本に戻ってきていたのかな。

水間 そうみたいです。何年かシベリアにいたそうです。

伊島 それでお父さんは日本に戻って大阪で暮らしてたけど、中国人と結婚したくて中国にいるお母さんと文通からはじまって結婚したわけですね。

水間 そうですね。僕に一つ上の兄がいるんですけど、両親はもう日本で暮らすことを決めていたので、兄は大阪で生まれました。でも両親とも日本語が話せなかったので母親はその時の出産がすごい辛かったらしく、二人目は里帰りして産みたいっていうことで、僕は大連で産まれたんです。

伊島 そういうことか。里帰りして大連でロン君を産んで、ある程度育ったところで戻って来たわけだ。ロン君も中国語を話せるってことですけど、それはお父さんとお母さんが家で中国語を喋っているから?

水間 じつは僕、両親が中国ってことが小さい時にすごいコンプレックスで。中国語で話しかけられてたんですけど反抗して「日本語で喋ってほしい」ってずっと言ってまして。聞き取りはなんとなくできてたんですけど、喋るのは嫌で自分からずっと拒絶してました。でも高校を卒業した時に父親が心臓の病気で倒れて、長いこと入院することになって、父親はどっちかというと無口なので二人で喋るってことがなかったんですけど、病室で珍しく二人きりになった時にゆっくり話をしてくれて、その時に父親のルーツの話とかも詳しく聞きました。その時、それまで中国の血っていうのを恥ずかしがっていた自分のことが逆に恥ずかしくなった瞬間でした。大学生の時だったんですけど思い立って中国に一人で行ってみようって思いました。それまで夏休みとか春休みの長期の休みに家族で里帰りするのも嫌だったんですけど、その時にはすぐにチケットを取って大連に行きました。最初は一ヶ月くらいの滞在でした。そこから中国にのめりこんで独学で親には言わずに隠れて中国語を勉強しました。

伊島 本当ならそれが一番簡単だったはずなのにね。

水間 簡単だったはずなんですけど、そこは自分の中で親に「教えてよ」って言えなかったですね。

三者面談とか参観日とかにも来るなって、けっこう酷いことを言っちゃっていて。

伊島 そうなんだ。子供の頃両親が中国人ってことがコンプレックスだったっていうのは、なんとなくだけどよくわかるなあ。僕は親父が台湾の人で、当時の台湾は日本統治時代で日本人として生まれて日本語教育で育った人なんで、自然に京都の大学に来ていて戦争が終わってもそのまま居ついたって感じなんですけど、僕は全然知らされてなかったんですよ。

水間 それくらい日本語が流暢だったんですか?

伊島 流暢というより日本語しか話せなかった。その当時は教育も日本語だし若いころに京都に来ちゃってるからもう台湾語もほとんど喋れないくらいだったんですよ。結婚する時にお袋の親戚の家にいったん養子縁組に入って伊島って姓に変わって、それから結婚したんですね。本名は鏡が澄むって書いて「鏡澄」中国語読みだと「チンチャン」っていうのかな。それをカスミって呼び方にしてたんだけど、子供の頃は鏡澄という名前すら使ってなくて浩一だったんですよ。苗字が「黄」だったので、みんなからコウさんコウさんって呼ばれてたのね。そのコウさんっていう呼び方が不自然にならないように名前を浩一に変えたんだと思う。だから子供の頃はみんな親父のことをニックネームでコウさんって呼んでるんだとしか思ってなかったんだけど、実は黄っていう苗字だったってことなんですよ。それを全然知らなくて高校卒業の間際くらいにはじめてカミングアウトされて。その時は僕もショックでしたね。「そうだったの?」って。僕はもうある程度大人になっていたってこともあるけど、どうしてそんなに隠してたのってモヤモヤした気持ちにはなりました。子どもの頃からお父さんとお母さんが中国語で会話してたから中国人ってことはわかっていてそれで差別とかいじめられたりとかはあったんですか?

水間 運が良かったのか僕が育ったのが大阪の在日朝鮮人在日韓国人が多い地域だったので、そこに対する偏見は他の地域より少なくて当たり前のように在日中国人として育ったので、いじめられたという記憶はないです。ただ自分ではずっと他とは違うと思っていました。親と出かける時も親には極力人前で喋らないでほしいって。日本語を喋るとバレるんで。学校の三者面談とか参観日とかにも来ないでくれって、けっこう酷いことを言っちゃっていて。自分で壁を作ってたましたね。

伊島 このMikkusu Magazinのインタビューをしてると、例えばお母さんが白人だと学校で目立つから参観日には来ないでくれって言ったことがあるとか。そういう人も多いですね。

水間 小さい時は目立つのが嫌でしたね。

伊島 子供の頃は目立つってことが嫌みたいだよね。

水間 同級生と同じでありたかったです。

僕が母親に実際に言った言葉があって「なんで日本人ちゃうねん!」って

伊島 それもよく聞く話ですね。日本という国は人種がある程度単一で、黒人も白人もそんなにいなかったりほとんどが黄色人種というか。韓国も含めて元々大陸から入ってきている人たちが混じっているわけだから、日本が単一民族国家だっていう考えの方がおかしいと思うんだけどね、だけどやっぱり言葉ですかね?

水間 そうですね。親とさえ会わなければ僕が中国人だと思われることは基本ないです。

伊島 お父さんお母さんも見た目でははわからないでしょ?

水間 見た目はわからないですね。

伊島 喋ると?

水間 いまだにカタコトですね。

伊島 でも、コンプレックスはもう解消したんですか?

水間 そうですね。親父が入院した時くらいからコンプレックスというより誇りに思えるようになったっていうのはあります。自分には中国の血が入ってるんだって強く感じるようになりました。

伊島 ところで、最近演られたのがこの「燕 Yan」という映画なんですね。これは台湾人の役ですか?

水間 台湾と日本のミックスの役ですね。

伊島 まだ観ていないので映画の内容については今そんなに詳しくは話ができないんですけど、パンフレットを見させてもらって、お母さんの役が一青窈さんで、劇中なんて言ったんだっけ?

水間 それは、僕が母親に実際に言った言葉があって「なんで日本人ちゃうねん!」って、当時小学校低学年くらいの時に思いっきり泣きながら言ったんですけど、その言葉をずっと覚えてるんです。シチュエーションとか母親の顔とか、僕がどう座っていたとか全部覚えていて、それが忘れられなくて。それをずっと後悔していて、いつか謝りたいって思ってたんですけど大人になっても恥ずかしいからなのかその話ができなくて。せっかくこういう機会をもらったのでそのセリフを入れてほしい、映画を通して謝りたいっていうことを監督とかプロデューサーに伝えて「日本人のママがよかった!」って、泣いて母親に言うのを僕の子ども時代を演じてくれた子に言ってもらいました。

伊島 この話が来たのは偶然なんですか。

水間 話が来たというよりはプロデューサーさんと一緒にこういう映画を作ろうって。

伊島 ロンさんに当てて書かれたってこと?

水間 そうですね、一緒に話をしながら。中国での撮影も考えたのですがかなりハードル高いのと、製作費も高いので自主レーベルで台湾高雄で撮ろうってことになって。

伊島 そうなんですね。これは楽しみです。

中国大陸を一人で半年間バックパッカーで旅したりとか、日本をヒッチハイクで周ってみたりと

水間 空くんにはお父さんに台湾の血が入ってるっていつ伝えたんですか?

伊島 いつからだろう。けっこう小さい頃からずっと言ってたと思う。

水間 そこに対して彼はなにか反応があったんですか?

伊島 なにもないと思います。

水間 彼もいわゆるミックスってことですからね。

伊島 そうだね。ぼくは思うんだけど日本人って単一民族とか言ってるけど、既に何百年何千年とか遡れば南から北から西からいろんなところから来てるわけだから、すでにみんなミックスだと思うんですよ。

水間 極論みんなミックスですよね。それが近い世代かどうかってだけで。

伊島 そうなだんよね。ぼちぼち写真撮らせてもらおうかな。

水間 ここに立っていればいいですか?

伊島 役者だと写真はあんまり慣れてない?

水間 変に緊張します。ロボットみたいで。隠し撮りの方がラクですね。いざレンズを向けられるのは動画だと全然いいんですけど。

伊島 そうだよね。

伊島 大学を出てすぐに東京に出て来たんでしたっけ?

水間 そうですね。ホントは高校卒業して俳優になりたくて東京に出ていきたいって親に話したんですけど、俳優やるのはいいけど大学だけは出てくれって言われて。しかもあんまり裕福な方ではなかったので下宿代とかキツイから大阪の実家から通える大学出たら後は自由にしていいってことだったんで、大阪の大学を出てそこから東京に来て俳優活動はじめました。

伊島 東京に来て最初はなにをやってたんですか?

水間 最初は事務所に入ったり舞台に出たり自主映画に出たり、いろいろやってたんですけどなにかを掴むってことはなくて。今の事務所に25歳くらいからお世話になってるんですけど、そこに入ってからやっと本格的にって感じです。

伊島 順調に仕事は来たの?

水間 まったくといっていいほどなかったです。

伊島 バイトは?

水間 バイトもしてました。あとはロードムービーを見るのがすごい好きだったんで、いろんな所、それこそ中国大陸を一人で半年間バックパッカーで旅したりとか、日本をヒッチハイクで周ってみたりとか、そんなことばっかりしてました。

伊島 それはお金があんまりない頃だよね。

水間 まったくというか借金もしてました。

伊島 借金しながらヒッチハイクで旅行とかもしてたんだ。25歳で今の事務所に入って、そこからは仕事が来るようになったの?

水間 少しずつですね。今でもまだまだ。

母親は中国語で話しかけるんですけど、子供は日本語で返すんですよ。

伊島 最初の頃はちょい役とかも多いんだろうけど、プロフィール見てるとかなりいっぱい出てるよね。

水間 作品数だけでいうとすごい出させて貰いましたね。少しずつ役の大小も変わってはきました。

伊島 今までで一番手応えのあった作品はなに?

水間 『燕 Yan』です。

伊島 そうだよね。主演はこれが最初?

水間 はじめてです。

伊島 公開された時の評価とか評判はどうだったんですか。

水間 すごくいろんな方から良かったとって言葉ももらったんですけど、ちょうど時期が1回目の緊急事態宣言が開けてすぐだったんで、映画館に人が来てくれないってこともあってどうだったんだろうって感じですけど、でも見てくださった方からはいい評価をいただけました。一番最初のワールドプレミアは二年前に台湾の高雄映画祭で公開させてもらって。その映画祭には自分も行って直接お客さんと話をしたんですけど、評判良かったと思います。

伊島 台湾の人にとっても面白いテーマだよね。

水間 そうですね。台湾と日本は密接な関係にありますからね。

伊島 僕と同じような境遇で、台湾だったり朝鮮だったりが戦前は日本だったっていう時代が一時あって、日本人だと言われて生まれ育った人たちが、戦争が終わった途端にやっぱりお前たち日本人じゃないんだよっていうことになっちゃった境遇の人はけっこういっぱいいるはずなんですよ。僕の親父世代とか。あなたのお父さんはもう80だっけ?

水間 はい。

伊島 お父さんも満州で生まれ育ったりとか。そういう人達っていっぱいいて、僕の親父の兄弟とかもそうだけど、台湾で今でも暮らしてたりして。彼らにしてみればもともと日本って親しみのある国で、変に差別的な意識を持ってたりはしないと思うんだけど、自分達が疎ましい存在みたいに思われてるってことに対してはどう思うのかなって考えてしまう。「なんで日本人じゃなかったの」って言われちゃうのを、彼らが聞いた時にどう思うのかって感じたんですけど。そういう反応は聞いてないですか?

水間 そこのシーンに関して台湾の方になにか言われたことはないんですけど、日本の方に言われたのは否定的な意見ではないんですが、映画の中で一青窈さん演じる母親は中国語で話しかけるんですけど、子供は日本語で返すんですよ。これは僕が小さい時の会話の仕方だったんですけど「そんなのあり得ないでしょ」って反応とかはあったりして。偏見とまではいかないけど「こんな家庭は映画の中だけだよ」とか「そんなの嘘だろ」とかって言われることはあって。実際、僕が小さい時はそうだったんですけどね。

伊島 わかります。僕はすごくわかるな。ありますよ、そういうこと。

水間 このミックスの家庭環境っていうのを頭では理解してくれてるけど、そこに対しての受け入れは今でこそグローバルになって、僕もミックスだってことを誇りに思うようになりましたけど、それは社会が変わった、世界が変わったというよりも、ただ自分が大人になっただけなんだなって感じてはいます。今でもミックスの小さい子ってコンプレックスを感じてると思うんですよ。他の国はわからないですけど、そういうことに関する理解という意味では日本はちょっと生きづらいんじゃないかなって。

母親に「これからは全部中国語で喋ろう」って言いまして、すごい嬉しかったみたいです。

伊島 日本人もアメリカとかブラジルとかに移住した時代がありますよね。僕も傍から見てるだけだけど日系人の家庭とかも最初はお父さんもお母さんも日本語で喋ってたけど、子どもは学校に行って友達とかと英語とかブラジル語で喋ってるから、お父さんお母さんが日本語で喋ってるのに対してその国の言葉で応えてたりっていう光景はけっこうあると思う。日本に住んでるハーフの人達も一緒で、お父さんお母さんは母国語で喋ってるんだけど子供たちは日本語で返してるって、僕からするとよくある光景だと思うんですけどね。

水間 その通りです。僕自身が実際にそういう環境だったので、まったく普通のことだと思います。僕が高校を卒業して中国語の勉強を始めてある程度喋れるようになった時、自分の勉強もかねて喋れる機会も増やしたかったんで母親に「これからは全部中国語で喋ろう」って言いまして、そこから母親とは日本語は使わないで中国語で話しているんですけど、すごい嬉しかったみたいです。

伊島 そうだろうね。でも中国語ってほんとに難しくてね。

水間 難しかったです。

伊島 発音が大変じゃない?

水間 両親が喋っていたので聞き慣れていたというのは大きかったかもしれないですね。コロナがはじまる前は北京に住んでいて向こうの映画学校に通ってたんですけど、いくら会話に問題がなかったとしても発音はどうしてもネイティブになるのは相当キツかったですね。

伊島 すごいね。中国語できる人って尊敬するな。これから先はどういうことをしていきたいとかってあるんですか?

水間 3年前に北京に行ったっていうのもそうなんですけど、日本と中国語圏で活動できる役者になりたいと思っていました。向こうの作品にも出たいし「燕 Yan」みたいに台湾でも活動したいし、場所を問わずに活動できるようになればなと。あんまり明確にこういうふうになりたいってのはないですけど。

伊島 中国の映画とか台湾の映画とかね。中国語ができるわけだからね。

水間 そうですね。日本の作品でも中国人役をいくつか演じています。外国人の役がもっと増えればいいなって思っています。

自分が日本人なのか台湾人なのかっていうことを自問自答するんです。

伊島 ちょっと話は飛ぶけど、日本の映画とかドラマでも方言ってすごく気になることが多いんですよ。僕は京都出身なので関西弁の演技は特に気になる。

水間 ありますね。

伊島 関西弁が変だとそれだけでその作品にのめり込めないし冷めちゃうっていうか。そういうこともあるから、ロン君が中国人の役をやった時にそれを中国人が見て「コイツ中国人じゃないな」って感じられちゃうってことはあるかもね。

水間 多分そう言われるだろうと思って、まだまだ勉強は続けてますけど難しいですね。

伊島 中国にもたくさんの言語があって、北京語だけじゃなくて上海語もあれば香港は広東語だし、中国の場合だいたいは吹き替えらしいよね。

水間 そうですね。ほとんど吹き替えが多いようです。ドラマとかは特に多いみたいで北京に居た時にすごいアフレコの話が来るんですよ。日本人兵士の役を現場では中国人が演じて後から日本語で吹き替えたいから日本人集まってくれみたいな。でも今の映画界ではどんどんアフレコをなくしていこうっていう動きになってるみたいです。

伊島 広東語と北京語ってずいぶん違うんでしょ。

水間 まったくわからないですね。それこそ台湾語もまったくわからない。挨拶くらいです。

伊島 そうなんだよね。中国は広いからね。

水間 いちおう北京語が標準語だから基本的には全員使える。でも広東語とか上海語とか四川語、台湾語って感じでその土地その土地の言葉があって、すごい年配の方じゃないかぎりは訛ってたとしても北京語は喋れます。

伊島 将来中国に住みたいというのはあるんですか。

水間 どこに住んでもいいかなと思ってます。中国日本とかに限らずどこでも流れでいいかなって。

伊島 いつもインタビューしていて思うんだけど、何人っていうのはなにをもってそういうのかって話をするんですけど、なんだと思いますか。

水間 それはすごく僕も思っていて。はたして国籍なのか血筋なのか。自分がそう言えばそうなのか、難しいですけど、でも自分でも気になっちゃいますよね。その何人っていう型にはめようとしちゃいますし、はめられることもあるし、僕のストーリーを聞いて、じゃあ日本人だねとかじゃあ中国人なんだねって言われることの方が多いですけど。そういう会話が映画の中で出てきます。

伊島 出てくるんだ。

水間 そうですね。それは映画の大きなテーマでもあって、自分が日本人なのか台湾人なのかっていうことを自問自答するんです。映画の中の答えとしては「どっちでもいい、どっちかに決めなくていいよ」って感じなんですけど。自分としてはその定義は難しいですね。

伊島 例えば旅行していてユースホステルみたいなところに泊まったとすると、いろんな所から来てる人がいるから「どっから来たの?」「何人?」みたいな感じの話を必ずすると思うんだけど、そういう場合にパスポートの国籍が日本だから「日本人だよ」って言うのと、自分自身のアイデンティティとして何人っていうのは別な気がするよね。そういう意味でロン君は自分で自分を何人だと思いますか?

水間 それもずっと考えてることですけど、日本人でもあるし中国人でもあるなって。その旅行感覚でいうと日本人ですって言います。持ってるパスポートがそうなので。その質問に答えるのは難しいですね。

伊島 時間が経つとまた見えてくるかもね。

水間 そうかもしれないですね。今は使い分けてます。中国に行ったら外人な感じで日本にいる時には中国人だよって言ったりして(笑)

いろんな人種だったりいろんな地域の人達の話も気になる

伊島 なにかこういうことだけは言っておきたいっていうことはありますか。

水間 こういう企画にすごく興味があって。身近にミックスの人は多いんですけど、いろんな人種だったりいろんな地域の人達の話も気になるので、出来上がりがすごい気になってます。いろんな人のルーツを知りたいなっていうのがあったので素晴らしい企画だと思いました。

伊島 ありがとうございます。最後にですね、これも必ずインタビューした人みんなに聞くようにしてるんですけど、あなたがミックスジュースを作るとしたら何をいれたいですか?

水間 リアルミックスジュース?

伊島 そう。それは実際にあとで僕がそのジュースを作りましてその写真を撮ってそんなページも作りたいと思っています。

水間 大阪人だとミックスジューチュなんですよね。

伊島 そうなんだ。

水間 リアルジューチュ。絶対に入れるのはベースは豆乳ですね。

伊島 豆乳ね

水間 バナナも絶対です。あとは野菜をとりたいんで青汁パウダー入れます。

伊島 青汁パウダー。なるほど。

水間 実際それは自分が飲んでいて。意外と健康志向なんです。

伊島 青汁パウダーってテレビで宣伝してるやつ?

水間 みたいなやつです。一本に梱包されてる。もうそれだけで美味しいような気がしますけど、いろんなもの入れたいですね。あとはアマニオイル入れます。バナナ、青汁パウダー、アマニオイル、豆乳以上でお願いします。

伊島 わかりました。

水間 それ飲んで体ご自愛ください。

伊島 そうだね。ホントに飲んでみよう。ありがとうございます。

 

 

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