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0027 アイリン

幼稚園から高校3年生までインターナショナルスクールに行っていたので、英語と日本語は喋れるけれど中国語は話せないという台湾国籍の通訳にして2児の母。底抜けに明るく笑顔を絶やすことのない根っからのポジティブウーマン。そんなアイリンさんの生い立ちからこれまでの経験、考え方を話してもらった。

伊島薫

伊島 アイリンさんにはこのあいだ初めてお会いして、通訳とか翻訳とかをされている方だということは分かっているのですが、今日はアイリンさんがどういう人なのかっていうことをお伺いしたいと思っています。

アイリン はい。

伊島 まずは簡単に自己紹介をお願いします。

アイリン 東京生まれ東京育ちの華僑3世です。戦争前におじいちゃんの知り合いが長崎にいたらしくてその方を頼って上海から長崎に来て、その後、長崎から東京に引っ越したそうですが、その4日後に関東大震災があったらしいです。それから父が生まれて、母と父が結婚して私が生まれました。

伊島 東京に来たら4日後に関東大震災。

アイリン そう聞いています、4日後に。その時初めて地震に遭ったと。だから私が小さい頃、地震でちょっと揺れてみんながドキドキしていると「たいしたことないから!」っておじいちゃんがいつも言っていたのを覚えてます。

伊島 おじいさんは東京に来てからなにか事業を始められたんですか?

アイリン 最初は渋谷の並木橋で床屋さんをやっていて、おばあちゃんが新宿でラーメン屋さんをやっていたそうです。その後パチンコ屋をやらないかと誘われて始めたと聞いています。

伊島 おばあさんとは中国にいる時から一緒だったんですか?

アイリン おじいちゃんが寂しいからって、中国に帰った時におばあちゃんをお嫁さんとして連れて帰って来たそうです。

伊島 東京で床屋さんを始めた後、中国に帰った時におばあさんと出会って、一緒に東京に戻って来ておじいさんは並木橋で床屋さんを、おばあさんは新宿でラーメン屋さんをやってたってわけだ。

アイリン そうです。

伊島 すごいね、それぞれがそれぞれの商売をやって。

アイリン そうやって子どもを育てたんだと思う。

伊島 それで産まれた子どもがお父さんということですね。

アイリン はい、そうです。母の家族は寧波(ニンポー)から東京に来て築地でずっと中華料理屋さんをやっていました。

伊島 寧波?

アイリン 上海の南です。父も母も、日本で生まれ育った中国人で、父はちょっとの間、中華学校に行っていたので多少中国語はわかるんだけど、母は日本の学校に通っていたので中国語は全然喋れなくて。だから我が家は言語的には日本語がメインです。

伊島 僕の父親ももともと台湾なんだけど、子どもの頃から日本語教育で、そのまま日本にいついたから、台湾語も中国語も全然喋れなかった。

アイリン ウチもまったく日本語だけ。

伊島 アイリンさんは中国語は?

アイリン まったくできないです。インターナショナルスクールに幼稚園から高校3年生まで行っていたので、英語と日本語は喋れますけど中国語はできない(笑)

伊島 英語はできて中国語ができないんだ。

アイリン うちは不思議で、弟は中華学校に行っていたので中国語が喋れるの。でも女の子はインターナショナルスクールに入れて英語を学ばせてくれました。パパもそんなに喋れるわけじゃないけど、男の子は母国語をキープしたかったのだと思います。大学はアメリカに出してもらえなかったので泣く泣く日本の大学を卒業して、東京で働きはじめて今に至るって感じです。

伊島 大学を卒業してからはなにをしてたんですか?

アイリン 広告代理店に行きたかったんです。でもその頃はまだいろいろまだあって、国籍が日本ではなかったのでやっぱり採ってくれなくて、正社員じゃなくて契約社員みたいな感じで広告代理店にいました。

変に「アイデンティティが…」とかないかもしれない。

伊島 お父さんもお母さんもずっと中国籍のまま?

アイリン そうです、でも国籍は台湾なんです

伊島 中国じゃなくて台湾なんだ。

アイリン 台湾国籍。おじいちゃんが赤十字のパスポートで日本に来ていて、中国が台湾と分かれた時、国籍を選べたんですって。それでパパたちは台湾を選んだ。その時は台湾といっても、蒋介石が台湾に逃げてきて、「本来の中国はここだ」って言って中華民国って名付けて政権を作ったのが台湾なのね。おじいちゃんは親戚がいたから中国のパスポート。でも私たちは台湾二世ということになるんです。

伊島 そうだったんですね。そういう場合って在留資格ってどうなるんですか?

アイリン アメリカでいうグリーンカードのような永住権、A.R(Alien Registration)をずっと持っていました。

伊島 長く日本に住んでる人はそれを貰えるということだ。

アイリン あまり詳しくはわからないのですが、たぶん申請したら貰えたのだと思う。だから小さい頃よく法務局に行ったのを覚えてます。今でも忘れられないのは、札にボートピープルって英語で書いてあったのね。それでパパが「忘れないでね。僕たちはボートピープルなんだからね。」って言っていたのをよく覚えてます。「そうなんだ、私たちってボートピープルなんだ」って。

伊島 つまり難民ってことだよね?

アイリン そうそう!一応日本の一部だったってことだから日本で暮らしてる人はそのままいていいよって。だから自分が何人(なにじん)って意識はずっとないまま育ってきたかな。学校もインターだったので、日本語ではない苗字の生徒が当たり前に様に沢山いたの。呼び合う時もファーストネームだったので苗字に対しての意識はとても低くて、別にって感じでした。なので自分のアイデンティティとかあんまり考えずに来ちゃっていました。

伊島 不思議な感じだね。

アイリン そうですよね、不思議な感じ。変に「アイデンティティが…」とかないかもしれない。

伊島 名前はどういうふうになってるんですか?

アイリン 苗字が「張」で下の名前が「愛齢」。だから日本語読みするとチョウ・アイレイになるのかな。でも中国語読みだとアイリンになるから英語だとアイリーン。大学に入った時に「名前は?」って聞かれて「アイリンです。」って言ったら「本名は?」って聞き返されたことがあってちょっとびっくりした。私の名前ってそう言われる類いなんだって。その時はじめて異国を感じましたね。

伊島 香港の人とかもイングリッシュネームみたいなのみんな持ってるからね。その感じで聞かれたってことだね。

アイリン そうだと思います。「本名は?」って聞かれて「え、本名です。」って言ったのを今でも覚えています。だからハーフではないしミックスでもないの。

伊島 でも、今「私はハーフではないしミックスでもない」って言ったのは血筋の話でしょ?

アイリン はい、そうです。中国人のおじいちゃんおばあちゃんと中国人のお父さんお母さんの間に産まれて、血が混ざってないってこと。

伊島 でもそれで言うと、日本人はよく「純日本人」だとか言うんだけど、元々はいろいろ混ざってると思うのよ。両親や祖父母を辿って、どこにも外国人はいないって言うんだけど、もっともっと上まで行くとね、極端なことを言えばアイヌとか琉球とかも、元は違う人種だろうし国も違ったろうし、さらに遡れば中国大陸から来たり朝鮮半島から来たり、南の方から来たりいろんな所から来て出来上がっているのが今の日本人だから、そう考えたら、すでに全員混じってるんじゃないのみたいなね。

アイリン 絶対そう思う。

3年保育の時に幼稚園の先生が「まだ3歳ですから」って言ったの。

でもインターナショナルスクールでは「もう3歳ですから」なの。

伊島 で、広告代理店ではなにをやってたんですか?

アイリン 営業のアシスタントをやっていました。あとスポーツイベントにすごく携わっていて。昔アメリカズカップとかやっていた頃、ヨット関係の仕事やったり、ウインドサーフィンの大会を手伝ったりしてました。

伊島 それはどれくらい?

アイリン 3年くらい。

伊島 その後は?

アイリン 結婚してお母さんになりました。40歳になったら絶対また仕事したいと思っていて、でも代理店は忙しくて戻れないしキャリアも積んでないし、学生の時から通訳の仕事をしていたので、やっぱり通訳に戻ろうと思って39歳の時に今の仕事に戻ったんです。

伊島 お子さんがいくつの時?

アイリン 下の子が10歳。ベビーシッターさんがうちにずっと来てくださっていて、その方がすごいスーパーベビーシッターさんで、「男の子は10歳まではきちんと育てなさい。そしたら大丈夫だから。」って言われたの。だからとりあえず下の子が10歳になるまで向き合おうと思って。それから仕事に戻ろうと。

伊島 それじゃあ下のお子さんが産まれてからの10年間は子育てだけ?

アイリン 子育てだけです。でもちょっとしたビジネスのEメールとか、昔の知り合いから頼まれたちょっとした翻訳とかそういう手伝いはやってました。あとは歌詞の文字起こしとか。歌をヒアリングして、それを訳すお仕事をしていましたのをやってました。

伊島 それは誰から頼まれるの?

アイリン 音楽関係の人たちをけっこう知っていたのでそこからお願いされていました。

伊島 そんな仕事があったんだね。

アイリン 今はググるとすぐ出てくるけど、昔は多分なかったんでしょうね。昔はカセットテープだったから巻き戻したりしながらやっていましたね。

伊島 アイリンさんが結婚したのはいつ?

アイリン 結婚したのは代理店にいる時です。離婚しています。子どもが2人いて、子育ての時に女の子は絶対自分と同じ学校に入れたかったのね。でも男の子の場合インターは言語的にどうなんだろうって。そういう話し合いをして日本の学校に通わせようという方針になり近所の幼稚園に通い始めました。なんとなく私が日本の学校や教育のシステムにいろんな疑問を抱いてしまって、その時旦那さんに「学校の行事とか先生に会うとかだったら、あなたが行かないと私きっと喧嘩になっちゃうと思う。ごめんなさい。無理かもしれない。サポートはするけどメインは動いてほしい」って言ったら、上の子はインターに通っていたし、母校だし、英語は喋れないけどとりあえず受けてみようかって。それで受験したら受かったの。だから息子は英語ができないままインターナショナルスクールの幼稚園にポンって入りました。娘はプリスクールに通っていたので。

伊島 日本の学校のシステムに合わないっていうのはどのあたりが?

アイリン 3年保育の時に幼稚園の先生が「まだ3歳ですから」って言ったの。でもインターナショナルスクールでは「もう3歳ですから」なの。インターでは子どもを赤ちゃん扱いしなくて1人の人として扱うから、3歳で噛みついてるような子がいたらもう絶対にNOなの。でも日本の幼稚園はそれがOKだったの。私は「もう3歳」の環境で育ったので、「まだ3歳」って言うとしたらこの先どうなるんだろうと思い始めいろんな疑問点がでてきました。下の子が写真を撮る時、いつもニコって笑っていたのにだんだん笑わなくなったの。それで旦那さんに「ちょっと見て。笑ってないのってどうなんだろう」って言ったら、その時に旦那さんも気づいて、じゃあ方向転換しようってインターに行かせることになりました。

伊島 そうか。

アイリン 「まだ3歳」と「もう3歳」の違い。

伊島 今、おいくつくらいなの?

アイリン 下の子が23歳で上の子が27歳。上の子は日本で働いていて、下の子はいまアメリカで働います。自分でどうしたいか考えてるんじゃないかな。

伊島 その辺はそれぞれ子どもたちに任せてる感じ?

アイリン そうです。もう20歳過ぎてる大人なのでね。なるべく言わないようにしている。「マミィはどう思う?」って相談されたら「こうかな」とは言うけど。それ以外はなるべく。

伊島 うちもだいたい子どもたちの好きなようにやらせてる。そうすると反抗期とかあんまりないんだよね。

アイリン ないない。インターに行っているから自分も通ってきた道だし、何をやるかとか全部わかるじゃない。だから娘に言われたのは、親に嘘をついて遊びに行く必要がなかったから、嘘をついて遊びに行っている友達がちょっと楽しそうで、こそこそして遊びに行くスリルがなかったのがちょっと寂しかったって。へえ〜、そういうもんなんだって(笑)

伊島 可愛い悩みだね。

アイリン 可愛い悩みですよね。それを奪っちゃったんだって(笑)

みんながみんなを認め、認め合う。誰も足の引っ張り合いなんかしなかったです。

伊島 インターナショナルスクールっていうのは外国人とかハーフの人がほとんどだと思うんだけど、いろんな国の人がいるわけだよね。同級生だった人たちは今どんな感じ?

アイリン 同級生は世界各国に散らばっていています。多くの同級生は仕事をしいて逆に専業主婦の方が少ないです。高校を卒業して25周年の時に東京に集まって同窓会をしました。みんな世界各国に散らばっていたので「みんなが行きやすいハワイとかにする?」って言ったら、やはりみんな東京に帰って来たかったみたいです。自分が住んでいた所を子供に見せたいと子供と一緒に参加した同級生もいました。以前住んでいた自宅や街並みを見に行ったりしていました。当時家族で行っていた行きつけのレストランなどに顔を出していた同級生もいました。

伊島 世界中に散らばってる人たちが集まったんだね。

アイリン はい。そうです。同窓会でわかったことなのですが、同級生のお父さんは実は誰もが知っているどこどこの偉い方だったとか、後、国は違いますが映画の“007“だったり。そういう話が出たりして。あの時には話せなかったことが20年後30年後とかに分かって最高に面白かったです。

伊島 “007“っていうと、例えば大使館員の人とか?

アイリン 大使館員だったのは知っていましたが、まさかリアル“007“だとはその時には想像もしていなかったです。

伊島 大使館で働いてる人って多かれ少なかれそういうことやってるんだろうね。

アイリン 子供の頃ってお友達のお父さんと話す機会があってもお仕事の話など全くしないし、した記憶もないです。そもそも何をしているのだろうって考えもしないし。“007“といっても誰かを殺したりしているわけでないですし、情報収集していたのでしょうね。「ハウスパーティーの時に、ママがパパに作っていたスコッチは色がスコッチなだけで全然お酒が入ってなくて、相手国のゲストが来た時には強めのお酒を作ったりとかしていた」って話を後から聞いたり。自分は酔っぱらわないようにして、お客さんは酔わせていろいろ喋らせるんだって(笑)

伊島 それはめちゃくちゃ面白い話だね。

アイリン ですよね。

伊島 インターナショナルスクールって楽しそうだね(笑)

アイリン 本当に楽しいし、すごくいいですよ。みんながみんなを認め、認め合う。誰も足の引っ張り合いなんかしなかったです。クラスメートの一人に良いことがあるとみんなで“イエーイ!”って喜ぶ空気があって私はそれが大好きでした。子供の頃から国籍だけでなく文化も違う友達が沢山いるのが日常だったので、いろんな国の人と交わってるとそうなるんですね。

伊島 いじめとかはなかったの?

アイリン それはあるけど、それってティーンエイジャーがみんな通ってくる道じゃないかな。それは何人(なにじん)だからとかじゃなくて意地悪な子は意地悪だから。ちっちゃないじめはあっても裏ではやらなくて結構オープンかも。陰湿じゃないいじめでした。

伊島 国籍だけじゃなくて人種的にもアジア系の人もいれば中近東系の人もいればいろいろいるわけだから、最初からそういうのを見てればね…

アイリン 日常になっているので全然ビックリしないです。あと宗教もみんな違うから。イスラム教徒の同級生もいたから、イスラム教徒の人は豚を食べないんだ、とかも普通のことでした。いろんなものがミックスされて入ってるから別に驚かないです。

伊島 今でこそ多様性とか言ってるけれども、まさに多様性の世界だよね。

中国人でもないし日本人でもないし。アメリカ人でもないしヨーロッパ人でもないし。

無国籍っていうか全部が入ってるって感じ。

だから途中で思ったのはいろんな文化の良いとこ取りすればいいなって。

アイリン まさに多様性。冬休み前になると学校の行事の1つに”ポットラックランチ”っていうのがあって、同級生がみんなお家からご飯を持ち寄り、みんなで頂くんです、ブッフェみたいに。そうするとインド人のお母さんたちが美味しい手作りのサモサやカレーなんかを作ってくれました。たぶん日本ではあまりない頃からインドや中近東系のフムスなどを食べていました。美味しかったです。

伊島 “ポットラック”ってどういう意味?

アイリン POTLUCK。ポットは鍋。ラックはグッドラックのラックでポットラック。みんなのお家から一品持ち寄りして、それをみんなでシェアーして頂く。いろんな国のご飯を頂けて楽しかった。

伊島 それはいいね。

アイリン 友達のママが作るナンが一番美味しいと今でも思います。遊びに行くとナンを作る窯みたいなのがあり、その窯にパチンッっナンを貼り付けて焼くの。どこのインド料理屋よりも友達のママが作るナンが一番美味しいです。食の面でもよかったです。

伊島 なるほど。それはいいな。

アイリン 通っていたインターナショナルスクールのフィロソフィー(philosophy:哲学)の一つが「いろんな国や文化の橋渡しになりなさい」そういう橋渡しの出来る人を育てたいっていう学校でした。意識はしてないけど、どこかにそういう概念があるのでしょうね。私も通訳を仕事としているので、違う国籍の人たちと仕事をするじゃないですか。言葉はもちろんですが、必然的に文化の橋渡しもしていると感じる時が多いです。橋渡しの役割を担ってる人が、卒業生に多いと思います。自分達がいることによって世界が円滑に平和に繋がって行けばいいな、という概念も自然に身に付いていると思います。

伊島 このミックスマガジンを作ってるのも、ミックスって文化とか国籍とかの橋渡しになるんじゃないのかなって思うんです。

アイリン そうですね。今いっぱいますよね。

伊島 いっぱいいるんですよ。ミックスマガジンを始めてから特に思うんだけど、もう今いくらでもいるなって。

アイリン そうですよね、絶対いる。私たちの頃はそんなにいなかったと思うけど、ほんとにいっぱいいる。今の子たちはすごくいいと思います。私たち世代のインター卒と今の若い子たちって、そういうところの感覚が似ているんだと思います。

伊島 今は日本の公立の小中学校や高校とかもにもクラスに一人か二人くらいは外国籍の子とかミックスの子たちがいるしね。

アイリン 小さい時からそういう人たちがいたらそれが当たり前になりますからね。

伊島 だからどんどん増えていけばいいと思うんだよね。

アイリン 絶対にいいと思う。国籍とか肌の色とか関係なくそうあるべきだと思う。

伊島 そう。そのとおり。

アイリン いっぱいいるし絶対良くなっていくと思う。

伊島 ご自身は中国人のお父さんお母さんから日本で産まれて日本でずっと育って来たわけですけど、自分のことは中国人って思ってたのか、それとも日本人だと思っていたのかどういう感じでいたんですか?

アイリン 無国籍って感じです。中国人でもないし日本人でもないし。アメリカ人でもないしヨーロッパ人でもないし。無国籍っていうか全部が入っているって感じです。だから途中で思ったのはいろんな文化の良いとこ取りすればいいなって。

インターナショナルスクールに行ってて良かったなって思う。

国籍に関していじめに遭うって経験がなかったから

伊島 時々このインタビューしているとその話になるんだけど、何人(なにじん)っていうのはなにをもって何人って言うのかなって思うんです。

アイリン まさにそうです。考えちゃう。 笑われたのは「中国人なのに中国語も話せないし麻雀もできないの?」って言われていました。麻雀パイは家にあったので麻雀パイで積み木倒しをして遊んでいました。でも麻雀はできないから変な中国人だねってよく言われました。でも食に関しては絶対に中国人だと思う。それは言える。

伊島 中華が一番好き?

アイリン コンファートフード(comfort food)っていえば中華料理です。中華を食べる時が一番ホッとする。

伊島 僕もわりと料理をよくするんだけど中華が一番多いね。

アイリン 私も結局中華が多い。料理屋さん行って美味しいなって思った時に、お家で真似ができるのが中華。和食はできないです。

伊島 僕もそうだな。だいたいパスタソースを作るのだって中華鍋だしね。

アイリン わかる!一緒!ミートソース作る時の隠し味はオイスターソースです。実家でお雑煮を作る習慣がなかったので、初めてお正月にお雑煮を調理した時、鶏ガラからお出汁を作っていたのですが、ショウガとネギを入れたので、スープが中華っぽくなってしまいした。お雑煮のお出汁には普通はネギと生姜は入れないからと元夫に笑われました。

伊島 だって美味しいもんね(笑)

アイリン 美味しかったですよ。美味しかったけどそういうズレはありましたね。難しいですね。

伊島 たしかに食べ物って大きいかもね。

アイリン だから、我が家のお雑煮は鶏ガラスープに水餃子です。食となったら中華だけど、だからって中国の人が食べているコテコテの中華料理食べてるかって言われたらたぶん違うかもしれない。

伊島 そうだよね。

アイリン なにしろラッキーだったのはインターナショナルスクールに行っていたってだけですごく恵まれていた部分はあると思う。いとこが日本の学校に行っていたんだけど自分が中国人であることを隠していました。「なんで?」って聞いたらちょっといじめにあったからだと。そう思うとインターナショナルスクールに行っていて良かったなって思います。国籍に関していじめに遭うって経験がなかったからこそ国籍を隠す必要性もなかった。そういう意味でも親に感謝しています。

伊島 在日韓国人の人とかも日本名を持ってたりとね。

アイリン いとこは勝手に日本名をつけていたと言っていました。だから「えっ!」って言ったのを覚えています。

伊島 そういうことって、メンタリティーとしてはなかなか複雑だよね。

アイリン それを味わってないのは良いのか悪いのかわからないけど、ありがたいなとは思います。

伊島 アイリンさんの場合そういう変な苦労をしないで育ってるわけだね。

アイリン そうですね。言われていたのかもしれないけど、あんまり感じていなかったのか別に気にしなかったのかもですね(笑)

伊島 インターナショナルスクールに幼稚園から行っていたからなんじゃない。

アイリン それはないと思います。だって日本の大学に行った時に「うっ」って思われていたと思います。別にどうでもいいやって思っていたのかもですね。あの頃は、インターナショナルスクールが珍しかったのでいろいろ聞かれました。ショックだったのは「その紺色のジャケット可愛いね」って言ったら、「アイリンは紺って日本語を知っているのね」って言われて。それは知っているでしょ、って思いました。あと日本語がメインで育っていないので、使っている日本語が古かったみたいです。以前お仕事の現場で「すみません、衣文掛け(えもんかけ)を2、3本ください」って言ったら、スタッフの方が「アイリンさん衣文掛けをなにに使うんですか?」って聞かれたので「ジャケットを掛けたいです」って言ったら、「あ!ハンガーのことですね」って。「衣文掛けって言わないんだ…」とそういう時に気付くことが多々あります。自分の使っている語彙の幾つかが古臭く通じないことが分かりました。

伊島 それは学校で習った日本語だったの?

アイリン お家で衣文掛けって言っていたからだと思います。英語ではHangerだけど日本語では衣文掛けって。そういうのはインターのあるあるだと思う。あとはカメラを写真機って言ったり。両親が古い日本語を使っているとその語彙で育つので。

日本ではパスポート写真撮る時に「真面目な顔してください」って怒られた。

あれには文化の違いを感じたな。

伊島 学校で読み書きは?

アイリン 勉強しました。第二外国語として日本語を学びました。

伊島 普通に日本語の本も読める?

アイリン 社会人になってから勉強したから読めます。今は普通に日経新聞も読めます。大学の時と社会人になってから必死になって日本語の勉強をしました。

伊島 それは大変だったね。

アイリン 大変だったけどちょっとラッキーだったのは、名前がアイリンだし代理店で働いていた時の部署が帰国子女の方が多かったのと、クライアントが外資系だったので英語でOKでした。

伊島 帰国子女扱いだったんだ。

アイリン メモとかも英語で書けたし、そういう意味では恵まれていました。

伊島 じゃあ、そろそろ写真撮らせてもらおうかな。

アイリン 私のインタビュー、大丈夫でした?

伊島 大丈夫ですよ。

アイリン 話があまり上手じゃないなって。人のインタビューを自分が仕事で同時通訳するんです。その時に話のまとまりがないな、とか何が言いたいんだろうとか思いながら同通しているんですけど、自分がインタビューを受ける側になって感じたのは、まとまりのある話をするのって難しいですね。撮影現場の仕事の時に思うのが、女優さんってすごいなって。撮られるのって大変だと思う。私はどうしていいかわからないです。スチール写真の時とかモデルさんや俳優さんは自然に動いているように見えるけど実はとても考えて動いていらっしゃるんですよね。大変ですよね。慣れてないとどこに視線向けたらいいかわからないです。こっちに視線くださいとか、笑ってくださいとか、カメラマンの人が言うじゃないですか。

伊島 笑ってください、が一番困るでしょ(笑)

アイリン そう。どこ見て笑っていいか、わからないです。

伊島 さっきお子さんの話してる時に言ってたけど、アメリカ人って写真撮る時必ず笑うよね。

アイリン ニコッて笑う。

伊島 それが上手だよね。アメリカでクルマの免許を取った時、写真撮るのに「笑って!」って言われて「えっ?免許の写真で笑うんだ?」て思ったもの。

アイリン 逆に私は日本でパスポートの写真撮る時に「真面目な顔してください!」って怒られた。

伊島 日本ではそうだよね、笑っちゃだめって。面白いよね。

アイリン まさか怒られるとは。あれには文化の違いを感じたな。

伊島 (写真を撮りながら)良い笑顔です。

アイリン 笑顔は作っちゃいけないんですよね、自然な笑顔じゃないと。

伊島 はい、そうです。笑ってほしい時には「笑ってと言う代わりに」ボクが笑いますからね(笑)

アイリン とても楽しかったです。

伊島 こちらこそ、ありがとうございました。

 

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