0026_22_01_17_槇島あるまゐら_ Almira Makijima

0026_槇島あるまゐら

ロサンゼルスで日本人の母とアメリカ人の父の間に生まれ、1歳半から葛飾柴又で育つ。高校生の時に再度アメリカに渡り、数え切れないくらいの引っ越しを経験。ニューヨークでゴスペルを学んだ後「やっぱり日本で歌をやりたい!」と、帰国後はジャズからシャンソンに移行し、現在シャンソンとヒップホップを融合させた「シャンスホップ」というジャンルの確立を目指すシンガーでありダンサー。

伊島薫

去年やっとFacebook20何年かぶりに父と連絡が取れたばかりなんですけど、

自分のルーツとか詳細がまだ不確かで

伊島 まずはお名前を教えてください。

あるまゐら 槇島あるまゐらです。

伊島 あるまゐらっていう名前はけっこう珍しい気がするんですけど。

あるまゐら 母がこだわりましたね。Almiraはアラビア語でお姫様っていう意味みたいです。父はアメリカ人なんですけど、ネイティブ・アメリカンとアフリカン・アメリカンと、あとフランス系が混ざってるのかな。去年やっとFacebookで20何年かぶりに父と連絡が取れたばかりなんですけど、自分のルーツとか詳細がまだ不確かで、いろいろ混ざってたようです。

伊島 お父さんとは小さい時に別れちゃったの?

あるまゐら 私が1歳半くらいまで母はロサンゼルスにいて、父と一緒に過ごしてたんですけど、お互いに育った環境がいろいろ違いすぎて、やっぱり国際結婚って大変だったみたいです。母は結婚する前に子どもができたので、日本に帰ってきてっていう感じです。

伊島 じゃあ、ずっとおかあさんと二人?

あるまゐら そうですね。高校1年になったばかりの時に、母が「もう今しかアメリカに行くタイミングがない」って急に言い始めて。高校1年が終わるちょっと前くらいに、急にまたロサンゼルスに引っ越して。そこから数え切れないくらい引っ越しをしました。27回くらいまでは数えてたんですけど、2、3日しかいない場所もあったので。

伊島 アメリカに行って、アメリカ国内で引っ越ししていたの?

あるまゐら そう。行くなら旅行じゃなくて住みに行こうってことで、でも住んでみると思っていたのと違ったりするんです。ロサンゼルスの場合は自分の住んでる区域の学校しか行けないってルールがあったので、住んだところで学校が決まっちゃうから、とりあえず住んでみて、銃声が聞こえないかとか治安の確認をして。地域がよかったとしても、学校が崩壊してたりとか。日本の感覚で考えるとありえないことがいっぱい起きました。

伊島 学校と住む場所を求めて転々としたの?

あるまゐら 元々は母が歌をやるためにロサンゼルスに行ったんです。私はアメリカではじめはデザインとか日本画を描いてたんですけど、母の影響で歌に惹かれるようになりました。歌もアートもロサンゼルスじゃなくて、ニューヨーク行った方がいいよって言ってくれる方たちが多くて。そこから急にニューヨークに引っ越して、やっとハイスクールがスタートしたって感じです。

伊島 日本では中学を卒業して高校に入った後のことですね。

あるまゐら ギリギリ高校1年がまだ終わらない3月くらいに辞めちゃって。母は行くって決めたらすぐ行動なんで、先生たちも「あと1ヶ月いたら単位が取れるのに……」「今辞めたらアメリカで1年下げてスタートすることになっちまうぞ」とか言ってくれたんですけど。いい青春をその学校で過ごさせてもらいました。結局、アメリカでは2学年くらい学年を下げて転入したこともあったし、あっちの高校は4校くらい転校したんですよね。自分がしっくりいく高校じゃないと通いたくないって強い思いがあって。あんまりジャンボ校すぎるとにぎやかだけど、先生が全然スチューデントに目がいってなくて。

伊島 どういったところにそう感じたの。

あるまゐら その時起きたのは、なんかみんな若いな、話が合わないなって思ったら、知らない間に2学年下げられてて。何千人規模の学校だからそういうことが起きるんですけど、先生たちは気がつかない。英語を学びに行ったのに、半分くらいエスパニョールでオラからはじまるような言葉を使っていたり。なんかちょっと違うなっていうのがニューヨークだから起こったのかなって。マンハッタンって住民のほとんどが外国人じゃないですか。ダウンタウンに行ったらチャイナタウンがあって、そこはホントに中国の学校みたいになってたし。そこにも半年行ってたんですけど、ちょっと街の上下が変わるだけで住んでる人が違うんです。アメリカの学校を出たっていうより社会科見学に行ってきた感じですね。

伊島 最初から英語はできたの?

あるまゐら 聞くのは得意だったのかも。2歳くらいまではアメリカでそういう環境の中にいたし、日本に帰ってからも幼稚園生に英語を教えるクラスにたまに参加していて。でも中学生の時は英語がすっごく苦手で。英語のスキルレベルで3クラスあって、すごい頑張ってたんですけど一番下のクラスでした。筆記が苦手でしたね。でもスピーチ大会とかは学校の代表でスピーチしたりとか、聞く喋るはできるけど、書くのが苦手でしたね。この見た目で英語ができないとおかしいっていうのがあって、中学校の時は赤本とか虎の巻とか買いに行ったり、当時スピードラーニングみたいなのはまだなかったけど練習したりして、どうにかできる風に見せてたんですけど、アメリカに行くまではホントに苦手でした。

伊島 アメリカ行ってからはすぐに慣れたの?

あるまゐら そうですね。3ヶ月くらいで変わりました。そこで感じたのは、アメリカのインターナショナルスクールに行くのとアメリカンスクールに行くのだと、語学のスキルが伸びるスピードが全然違うってことでした。アメリカンスクールにアートのテストで入った時は、自分でデザインしたドレスを先生がコンペみたいなものに出してくれて、日本語しかできなかったけど入れてくれたんですよ。

私、葛飾柴又の、ザ下町!みたいな家庭で育ったんです。

伊島 もともと日本にいる時は絵を描いてたってこと?

あるまゐら そうですね。あと習字とか。私、葛飾柴又の、ザ下町!みたいな家庭で育ったんです。帝釈天の近くでおばあちゃんが桶屋さんやってたんですよ。

伊島 桶屋さん? 今でもあるんだ。

あるまゐら もう数年前になくなって引っ越しちゃったんですけど。はじめてのバイトも築地だったりとか、コテコテの下町の環境だった。それで絵をはじめて、最後は日本画に辿り着いて。

伊島 中学生でしょ?

あるまゐら 中学生ですね。高校受験は私、テストが苦手なんで、スポーツか絵しかなくて。それで自分で日本画を図書館に行って一から勉強したんですけど、日本って歴史が深いから絵も深みがあって、一回で全部塗り終わっちゃいけないんですよ。ちょっと塗って、乾わかして、一日おいて、ちょっと塗って、を何回も繰り返す。だから、淡い色ができるんだって勉強して。それも吉祥寺にある「明星学園」っていうアメリカンスクールっぽいところ行くために、一から自分で勉強したんです。明星学園は、先輩だと小栗旬さんとか面白い方たちが出ている学校で。もともとは陸上部だったんですけど、バレエもやってて。

伊島 踊りのバレエ?

あるまゐら 踊りのバレエです。そこからヒップホップをかじり、フラメンコもやり、12歳のときにベリーダンスもはじめて。フラメンコは情熱的でかっこよかった。ベリーダンスは音が繊細すぎて日本にない音階があるんですよ。そういうところに興味が湧いて、しかも簡単に踊れるダンスじゃなかったんですよ。見た目はそんなでもないですけど、難しさを感じて。学校に行きながらレストランでダンサーをやらせてもらったりしていました。

伊島 多才な中学生だね。陸上は?

あるまゐら 小学6年生くらいから陸上の短距離も本気でやってました。そしたら、中2の時に100メートルと幅跳びでオリンピック強化選手になりますかって声がかかって。その時、陸上やってたんで太ももがゴリゴリですごいことになってたんです。それで、このまま本気で陸上行くか、ダンサーとして人前に立つ仕事にするかで、体つきのターニングポイントだなって考えました。その時、腰も痛かったので陸上に行ってからダンスに戻るのは難しいかなと思って、ダンスの方を選んだんです。

伊島 陸上やってたらそれはそれで凄かったかもね。

あるまゐら おじいちゃんはオリンピックで見たかったって言うんですよ。けっこう本気でやってたので。

伊島 なんでもできるんだね。

あるまゐら いや、歌は音痴だったんですよ。高い声が出なくて、母と同じ歌を歌ってるはずなのに、なんか違う、なんかハモッテるって気づいて。苦手からスタートして練習をとことんやって、小学校になったら学校の校歌があるじゃないですか。校歌が綺麗に歌えない。高い音とかピアノで声出して練習してたら、聞いてた祖母から「聞き苦しいわね」「カエルが歌ってるみたい」って言われたくらい(笑)。練習してたらクラスの代表で1人で歌うところに先生がピックアップしてくれて。すごいシャイだったんですけど、そういう背中を押してくれる大人たちが小さい頃からいてくれたから、歌を歌い続けられました。

帰国するたびに味噌汁とか飲むと「やっぱ日本人なんだ、私は!」って思ったんです。

伊島 歌を本格的に始めたのは?

あるまゐら 母が私の年代くらいの時に、『Mama I Want to Sing』っていうむハーレムのゴスペル集団がはじめて日本に来たんですね。いろいろ歴史の深いミュージカルの団体で、はじめて見たゴスペルに母が感激しちゃって、ロサンゼルスに歌を学びに行こうって言い出したんです。その後、ニューヨーク行った時、いっぱい引っ越した途中なんですけど、ハーレムの145ストリートに住んでたんですよね。そこから20ストリート下がると、アポロシアターとかがあるメイン通りがあって、そこの小さい建物に『Mama I Want to Sing』の人たちの練習場があるんです。16歳の時に、そこのティーン向けのオーディション『ティーンズ・クワイア』を母が見つけてくれて、それまでまったく人前で歌ったことがないのに、とりあえずトライしたら、入れることになって。そこから2年間くらい、彼らに歌を教えてもらいました。そのまま所属していればステージに立てていたんですけど、途中で私は「やっぱり日本で歌をやりたい!」って。帰国するたびに味噌汁とか飲むと「やっぱ日本人なんだ、私は!」って思ったんです。

伊島 下町の血が騒いだんだね(笑)。

あるまゐら かもしれません(笑)。そして、勝負する場所を日本にするために帰ってきたんですけど、その方たちにゴスペルのソウルを教わって感じたのは、あの場所で学んだゴスペルの“ソウル”と、日本語の“魂”って、説明はできないんですけどなにもかも違うんですよ。同じ太陽を見ていても違う太陽を見てるような感じです。アフリカ人にとっての太陽はオレンジっぽい強い太陽かもしれないけど、日本人からしたらもうちょっと淡い色みたいな。そんな感じで、最近はいろんな言語を学べる場所が増えて、昔よりは通じ合えてる気がするけど、ホントの意味では通じ合えてないんだなって感じたんです。

伊島 どういう部分で。

あるまゐら ゴスペルを教えてくださった先輩たちは、歌ってるだけなのに洋服着替えてるところを見たら、全身テーピングだらけで。やっぱ全身を使って歌を神様に捧げてるって感じました。私はシャイだったし実家も木造だったので、日本ではデカい声を出せる場所がなかったけど、そこだと、どんなに音程はずしても、どんなに変な声を出しても、かき消してくれるくらいの人たちが、同じ年代でも周りにいるんです。だから、ありのままの自分を出しても評価すらされない。逆に言えばケチもつけられないし、いいとも言われない。なにも気にしなくていい場所を与えてくれたっていうのが『Mama I Want to Sing』の『ティーンズクワイア』だった。日本だと一緒にクラップして共感する楽しみ。でも、あそこだと誰ともかぶりたくないから勢いでパッションでやるという、また違う楽しさ。でも、それだけだと日本の分かち合う、一緒に楽しむという美しさに触れるのは難しい。

伊島 なるほど。

あるまゐら 数年前までは、日本の学校で守られて、わがまましていてもどうにか導いてくれる大人たちがいる環境だった。けど、アメリカでは「学校にさえ行けない」「母親父親が亡くなっちゃって頼る人がいないから、とりあえずここのオーディションを受けに来た」って、母への愛とかラブレターが全部入れ墨で書いてある子と一緒の環境になった。私はそれまで日本人で育ってきたので、入れ墨に対しての差別的な思考もしっかり入っていたし、でもそれは今の時代には合ってないんじゃないかなっていう考えもあって。その子のことを思い出すと、今でも涙が出ちゃうんです。抱えてるものが違うんですよね。それが歌に出てるなって思って。命がけで歌ってる。日本でも命がけで歌ってる状況の人もいるとは思うんですけど、また違うんですよね。銃が近くにある社会と無い社会で。

いっぱい差別とかもありましたけど、工夫して楽しんでました。

伊島 もともとお母さんがゴスペルが好きでアメリカに行ったんだよね?

あるまゐら そうですね。

伊島 ニューヨークに行ったとしても、日本人がハーレムに住むってなかなか聞いたことがないよね。

あるまゐら しかも、家賃が上がった時ですごい貧乏だったんですよ。普通は母と子2人だけで日本からアメリカに引っ越す、しかもマンハッタンに住んでるってなったら「超金持ちじゃん」ってなると思う。ホントにそういうのじゃなくて、家族内でゴタゴタもあって、とりあえず逃げようと。ちょっとでもいい暮らしになろうとして、それで歌も本気でやるなら、路上ライブもニューヨーカーのレベルを見てほしいって親に言われて。急に日本を出たので貯めてるお金もないし、ホントにど貧乏だったんですね。それで、ハーレムで友だちとやってたのは、水のペットボトルがスーパーに売ってるじゃないですか。それを1本ずつ「1dollar,1dollar」って言って、水売りをしてお金を貯めたりとか、そういうことしかなくて。母も日本人として行ってるからビザの問題上仕事はできないし、私が学校の合間に働くしかなくて。でも、上手く工夫するとすごく楽しく暮らせるんですよ。水売りをその年代でやるって、なかなかないよねって言われたけど、逆にそれが楽しすぎて。

伊島 水売りが?

あるまゐら 水売りが楽しすぎて。私たちだけじゃないんですよ。国境を越えてきたエスパニョールのお友だちにも、家族ぐるみでコニーアイランドの水辺とかで水売ってる強い人たちがいたし、日本だと経験できないっていうのがわかってたので、今後の自分のためになるなって思って。あと、母の教えで「どんな環境でも楽しむのは自分からスタート。この世は楽しいことを見つけるしかないよ」って言われてたので。例えば牛タンって、私たちは好きじゃないですか。でも、あっちでは食べる人があんまりいないので、クイーンズのアラブ系の人たちが住んでる町にいた時、タンの美味しい所が25ドルとかで売ってたんですよ。そこから2,3日、母とタンパーティーしたり。そんな感じで、いっぱい差別とかもありましたけど、工夫して楽しんでました。

彼女は地下のランドリーで洗濯をしていたんですけど、

爆発が起きて100メートル先くらいまで吹き飛ばされちゃって。

あるまゐら えっと、なんでも話していいですか?

伊島 もちろんいいですよ。

あるまゐら なかなか聞いてくれる友だちがいないんで。人っていつ死んでもおかしくないっていうか、知らない間に死んじゃうものなんだなって思ったことがあるんです。母がタイムズスクエア近くのイングリッシュ・スクールに通ってたんですけど、その時、仲良くしていた友だちを紹介してくれて、話したら私の20歳くらい上で、ハワイ育ちののほほんとした女性で。彼女からするとニューヨークは忙しすぎて合わないからと「早くハワイに帰りたいんだよね」って言うんです。私もその時、友だちがいなかったので、素敵な友だちができたねって感じだったんですけど、それからたった一週間後くらい。その彼女が住んでる建物が一棟、爆発しちゃって……。私が住んでた反対側のハーレムに彼女は住んでたんですけど、建物も水道管も古くなってたみたいで、地下の水道管が爆発したんです。

伊島 水道管の破裂でビルが丸ごと崩壊しちゃったんだ。

あるまゐら そうですね。マンハッタンって長いビルがあるじゃないですか。あの中にいっぱい人が住んでたわけなんです。その時、彼女は地下のランドリーで洗濯をしていたんですけど、爆発が起きて100メートル先くらいまで吹き飛ばされちゃって。

伊島 彼女自身が水道管の爆発で飛んだの!?

あるまゐら そうなんです。もう一瞬で建物の中にいた人が全員亡くなっちゃって。そいいうこととかも衝撃的すぎて。日本では、水道管が爆発して家が吹っ飛ぶなんて、なにもかも想像できなくて。会ったばっかりの人だったし、彼女もハワイに帰りたい帰りたいって後悔してたんで、やっぱりなにかしたいって思った時には、ホントに早くした方がいんだなって。想像できないようなビックリすることが起こるんですよね。後でイングリッシュスクールに行ったら、亡くなった彼女の写真とお花が並んでいて、その時になにがあったか知ったんですよね。マンハッタンでもビルが一棟吹き飛ぶなんてことはなかったので、ニュースになっちゃって。

誰かしらギャングがいて家族を守らないと、

いろんなことに巻き込まれちゃうっていうコテコテな場所だったので。

あるまゐら 私の母って父の悪口をひとつも言わないし、父のことをなんにも言ってこなかったんですよ。だから、誰かもわからないし、小学生の時、父の日には白人で目はブルーで金髪のアフロみたなパパを描いていて。それを母が見ても「フフフッ!」って感じだった。そういう母だったんで、ホントになにも知らなかったんですね。2年前にアリエルちゃんって友だちがFacebook繋がりで、自分のアメリカ側の家族を知ることが出来たって話していて。その子とは渋谷の駅でひょんな出会い方をして、はじめましての時に電車でその話をして。

伊島 あなたとその初対面のアリエルちゃんが?

あるまゐら はじめましてで意気投合しちゃって、いろいろ話して。「もしかしたら、あなたのお父さんからも連絡来てるかもよ」って。それでふと、Facebookを見たら、パパからも来てたし、パパのお姉ちゃんからも連絡が来てた! 私が前の年にアメリカに行かなきゃ、ニューヨークに行かなきゃって、急に決めて2、3日後に家を出た時があって、ちょうどその時に父方のおばあちゃんが亡くなっていて、その連絡とかもいろいろ重なっていて。それからちょこちょこ連絡をとるようになった。でも、母の手前連絡を取りにくいし、おばあちゃんにも言えないし、兄弟姉妹もいないから、ウジウジしてたんですよ。それで、英語を喋れる友だちがパパと電話してくれるってことになって。それが2年前くらいで、そこから話をするようになったんですよ。そしたら、パパは遠回しにいろいろ喋るんですよ。「おじいちゃんは大きい組織に入っていて」とか、すごい遠まわしすぎてなにを言っているのかわからなくて。そしたら、母がある時はじめてお父さんのことを話してくれたんです。お父さんはいろいろあって、ギャングだったと。

伊島 ギャング?

あるまゐら レベルが違うんですよ。撃たれる時とか自分の身代わりになってくれる女性がいるとか。映画の世界ですね。そういう人ってトークが人一倍上手かったり、セクシーで魅力的なんですよ、女性から見ても。危ないヤツはセクシーだみたいな。そういう家系でおじいちゃんの頃から急進的な政治組織の初期メンバーで、3人兄弟の一番下だけがギャングになって、他の2人は真面目にやってる。地域的なものもあって、誰かしらギャングがいて家族を守らないと、いろんなことに巻き込まれちゃうっていうコテコテな場所だったので。

伊島 それはロスの話?

あるまゐら ロスですね。ビバリーヒルズはお金持ちの街なのに、数ブロック行くとメチャクチャ治安が悪い。そこの治安の悪いレベルが、逃亡犯を探すために道すれすれまでヘリコプターが下りてきて、ライトで照らして追いかけてるくらいで。その辺の情報って難しくて、ある程度知らないと自分を守れないこともあるけど、知りすぎると、そっちサイドの人だと思われちゃう。私、そういう記憶を消そうとしちゃってて、なるべく人の名前も場所もなにもかも覚えないようにしてるんですけど。

ぶれない目標はあって、それは歌で食べていく生活を整えて、

家族を安心させるってところなんですよね。

伊島 すごい話だね。ロスに行った時、お父さんと会ったりはしなかったんだ。

あるまゐら なかったですね。その地域に寄ろうとも思いませんよ。タクシーでそこまでお願いしますって言っても絶対に送ってくれないような地域なんです。送ってくれないから「そこを右、そこは左で、そのまままっすぐ」って誘導してやっと連れて行ってくれるみたいな。母もなにも知らなかったみたいで、みんなが良い人だと思ってそこの地域に行っちゃってたんですね。夜中のバスとか絶対に乗っちゃいけないんですけど、乗って移動していたら、一緒に乗ってたアフリカン・アメリカンの男の人に「なんで一人で乗ってるんだ? 大丈夫なのか?」って、他人に心配されちゃうくらい治安の悪い所で。

伊島 そこでお母さんはお父さんと知り合ったの?

あるまゐら そうですね。そこで出会って、私が生まれたのがダウンタウンの病院です。

伊島 なるほど。アメリカから18、19歳で帰ってきて、それまではゴスペルをやってたのに、帰国後はシャンソンをやったり、踊っても取れないっていうダンサー向けのウィッグを作ったりとか、どういう感じで今まで推移してきたの?

あるまゐら ぶれない目標はあって、それは歌で食べていく生活を整えて、家族を安心させるってところなんですよね。

伊島 ウィッグはどうして始めたの?

あるまゐら 自分が大好きだったのでそのまま商品にしちゃえって(笑)

伊島 モデルもやってるんでしょ。

あるまゐら そうですね。ちょうど今戻ろうとしてます。

伊島 しばらくやってなかったの?

あるまゐら たまにって感じになっちゃって。また私が人前に立つ意味をもっと掘り下げたり感じられるかなって。

伊島 そのあたりを掘り下げたらめっちゃ面白そうだね。

あるまゐら 外に出るとすぐ焼けちゃうし見た目も変わっちゃうんですけど、弱みでもあり強みでもある。パッと見どこの人種かわからないみたいな。特に冬になると母ぐらい白くなるんですよ。そうなるともっとよくわかんない。それを悪いっていう人もいるかもしれないけど、そういう人種が存在してもおかしくない世の中じゃないですか。モデルやってると「もっとブラックってわかる方がいいんじゃない?」「髪の毛ショートでカーリーヘアーで、もっとブラックにした方が仕事来るでしょ」って、型にはめようとする人もいる。はまった方がお金ももらえて生きていけるんですけど、でも今はあえてはまらないように大変な道を選んでみて、私はそれでいいかなって思っています。

ヒップホップカルチャーとシャンソンを一緒にした感じかなって思って

『シャンスホップ』っていうジャンルを作ったんです。

伊島 シャンソンもやってるんだよね。

あるまゐら そうなんですよ。こう見えて今やってるのはシャンソンなんですよ。

伊島 どうしてゴスペルからシャンソンに?

あるまゐら アメリカから帰ってきた時に、いろんなレコード会社の大人たちからいろんなアーティストの話を聞いて、自分で作り出せるアーティストになりたいっていうところに辿り着いたんです。19、20歳の2年間は、みんなにやってみたらって言われたことと、自分がトライしてみたいと思ったこと、興味があることを全部やってみようっていう年にしたんです。それがきっかけで、いろんなジャンルに触れるってことができました。最初の最初はJ-POP。AIちゃんとか加藤ミリアちゃんとかも出てたし。ニューヨークに行って、ゴスぺルが語る魂はなんとなくわかったんですけど、ゴスペルが基本の有名なアーティストっていっぱいいるし、面白くないなって思ったんです。自分にしかできないことしかやりたくないと。そしたら違うジャンルにも触れようと思って、次がジャズで。

伊島 ジャズもやってたんだ。

あるまゐら ある日、ステージに急に声がかかって、そこはシャンソンのステージだったんですけど、ジャズで『ラヴ・イズ・オーヴァー』を歌ったんですよ。そしたら、オーナーさんが「今度ライブしてみない?」って言ってくれて、そこではじめてジャズのステージをやることになって。アメリカにいた時、ゴスペルだけじゃなくて、ゴスペルジャズが好きだったんですよ。そこで、セッションの回し方とか、楽譜は読めないけど、だいたいこうやっていればいいんだってのが見えてきて。

伊島 飲み込みが早いんだね。

あるまゐら 次に、ブラジルフェスティバルって、代々木公園のイベントを友だちが仕切ってたんですけど、そこではじめて歌って踊るって形にトライしてみて、その時にビヨンセの曲をカバーしました。そして最後にたどり着いたのがシャンソンで。その時、私、ホントに切羽詰まっていて、兄弟もいないし、親も女一人で安定しない芸能を選ばせてもらって、変にいろいろ考えちゃって。その時にシャンソンの曲は1曲も知らなかったけど、全国大会があるから出てみないかって言われて。私は初期のシャンソンが大好きで、エディット・ピアフと越路吹雪っていう大御所二人の『愛の賛歌』をYouTubeで何百回も聞いて、3ヶ月間カラオケで練習しました。シャンソン界の人たちは、一見さんなのにお断りもせずに受け入れてくれて。沖縄からの参加だったんですけど、大会にも出られて優勝させてもらえたんです! そこでまたターニングポイントを迎えて。

伊島 デビュー戦で優勝?

あるまゐら 普通、シャンソンって師匠がいて、ずっとその人をフォローして、師匠がやってるお店で働きながら歌を歌って、下積み時代があったり、すぐにはできない道を通って来ている人たちが多いのに、私はゴスペルやってたこととか一切言わないで出ちゃったのもあって「1曲しか知らない子が優勝しちゃうなんて、シャンソン業界も終わったね」みたいに言われたりもしたんですけど、読売新聞さんとか、その時の審査員長の方たちがみんなサポートしてくれて「次世代のシャンソン歌手ということで今までとは違う子が欲しかった」「シャンソンだけじゃなくてアリシア・キーズとか、好きな歌を歌いなさい」って、一番上の人が言ってくれる素敵な団体だったんですね。そこに恩返しがしたい思いがあって、シャンソンの良さを今の若い人たちに伝えていけたらなと。そこで私ができるのは、ヒップホップカルチャーとシャンソンを一緒にした感じかなって思って『シャンスホップ』っていうジャンルを作ったんです。

伊島 シャンスホップ?

あるまゐら はい。まだ馴染みはないと思いますけど。

伊島 よく考えるとシャンソンって、今一番注目されてないジャンルだよね。

あるまゐら そうなんですよ。だから今、どうにかしないと。2年前とかけっこうシャンソンの曲がCMで使われてたりしいて、大人たちが仕掛けてるのかなと思って応援してたんですけど。

伊島 たしかに意外と穴場というか。

あるまゐら 私も穴場だと思ってシャンソンの大会に出たっていうのはあります。みんなが気づいてないけど、すごく魅力的なので。

伊島 面白いかもね。まだ曲は出来てないの?

あるまゐら まだ途中の段階。数曲はできていて。

伊島 早く聞いてみたいですね。シャンスホップ。

あるまゐら ファッションでいうと、ドレスを着てるけどドゥーラグ着けていたりとか。それくらいの塩梅で歌を楽しめるように、シャンソンとヒップホップを混ぜられたらなって。

伊島 楽しみ楽しみ。

あるまゐら それが自分の出来ることのような気がしています。

私が歌や芸能を選んだきっかけは、

私の“for exampleになる先輩が、小さい頃にいなかったからなんです。

伊島 さて、ミックスマガジンってことで、ミックスジュースがアイコンになってるんですけど、いつもこのインタビューの最後に「あなたがミックスジュースを作るとしたら何を入れたいか」っていうのを聞いてるんですね。果物でも野菜でも。

あるまゐら アボカドとバナナ。あとはミント。何個でもいいんですか?

伊島 いくつでもいいよ。

あるまゐら 最後にチョコでトッピング。

伊島 チョコでトッピング。

あるまゐら お姉さんのスマイルとか入ってたら嬉しいですね。

伊島 お姉さんのスマイル?

あるまゐら それでパーフェクトですね。

伊島 アボカド、バナナ、ミントだとなんか液体がいるんですけど。

あるまゐら 牛乳がいいですね。

伊島 牛乳にしますか。これをいつか僕が作って写真を撮ることになってます。

あるまゐら 面白そう(笑)。今度、急進的な政治組織の話とかお父さんから聞けた時、お話聞いていただけますか?

伊島 もちろん。メチャクチャ聞いてみたいです。このMikkusu Magazinは日本に住んでるハーフの人とか、ハーフに限らず人種のミックス、国籍のミックス、あとはカルチャーのミックス、ジェンダーのミックスまでひっくるめてインタビューをしていこうっていうメディアなんですね。今、日本に住んでる外国人も多いし、当然、日本人と結婚してミックスが生まれたり、日本もミックスの国になって来てるなっていうのを感じているんだけど、今だに日本は単一民族国家だって思ってる人も多いから、もうそうじゃなくてこんなにミックスの人がいるんだよっていうことを伝えていきたいんです。

あるまゐら 素敵です。私を含めてミックスはなかなか周囲に理解してもらえないし、自分でも理解できていないから、説明なんて無理なんですけど、そういうことをお話しできる場所がまずなかったから、今日は素敵な機会をありがとうございました。私が歌や芸能を選んだきっかけは、私の“for example”になる先輩が、小さい頃にいなかったからなんです。なので、自分が前に出ることによって、みんなに「自分ひとりだけじゃないよ」って共感してもらえるような、そういうhelpをメインにして活動していきたいので、こういうメディアはとてもうれしいです。私が小さい頃にはなかったから。これは10年20年したらすごくたくさんの人が見るメディアになるんじゃないかなって思っています。

伊島 ありがとう。僕もそうなってほしいと思っています。

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