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0024_矢野マイケル

兄弟3人によるボーカルユニット「矢野ブラザーズ」のボーカルにしてラッパー。ラッパーという言葉の響きからして、第一印象はちょっと強面な印象を抱いてしまうのはビクだけではないと思うが、実際に会って話してみるとこれがそれとは正反対のとても心優しい人柄に心を打たれる。まだガーナに住んでいた幼い頃にとても恐ろしい経験をし、日本に来てからもさまざまな経験を通して培われた、強靭でありながら他者に対しては深い思いやりを持つ、心も身体もとてつもなく大きな男。

伊島薫

4階から服とか毛布とかを結んでロープ代わりにして「デイビット、サンシロー、俺たち逃げるぞ!」って

マイケル 僕は生まれた時から両方の親の人種が違うから違和感はなかったけれど、ガーナの田舎から日本に来てから、こういうふうに“違う人たち“という目で見る国もあるんだって初めて知りました。当時は黒人というか外国人も少なかった時代でしたから、日本ではハーフあるあるなんですけど、片方の親が違うだけでストレスとかカルチャーショックとかがあって。

伊島 生活もだいぶ変わったんでしょ。

マイケル 父親は僕らが起きる前に出かけて、寝た後に帰って来るっていう、ガーナではなかった生活だったので、母親にかなりストレスがかかって、しかも、日本の昼間のドラマとかドロドロしていて、けっこうエグイじゃないですか。日本語はわからないけれど自分の夫も社内恋愛とかしてるんじゃないかなって、そういうところまで行っちゃって…。ガーナの教育って、子どもに手を上げるんです。叩いたりして教えるというか。当時の母は、それがちょっと過剰になってきて。日本に来て僕らもそういうことはいけないことなんだって知ったんですけど、父親も心配になって、僕らと母親を離すようになったら、今度は母親が父親に当たるようになって。やっぱり黒人の人たちは感情が凄いんです。そんなふうに家族間で摩擦が起きて、僕たち兄弟は養護施設に入ることになりました。施設に入る前に3か月間児童相談所に行くんですけど、その時はかなり辛かったですね。

伊島 “ジソウ”ってやつですね。

マイケル 父親は僕らを母親から離して、竹中工務店という一流の会社で働いていたので、やっぱり忙しくて。それで、ホテルに子どもたちを置いておけないってことで「友だちのいっぱいいる所に連れて行ってあげるよ」って言われて。高田馬場にあったんですけど、悪いことをして入って来た人たちとか、自分より年上の人とか、そこでいろんな日本を見て、弟を守らないといけないっていう気持ちになりましたね。最初、僕らは日本語も喋れませんし、日本の料理にも慣れていなくて。午後6時にご飯が始まって、食べ終わったら部屋に戻って寝るっていう流れなんですけど、全部食べ終わらないと、8時とか9時まで帰してもらえない。弟たちが食えなくて、もうお腹いっぱいだし、ただでさえ嫌いな食べ物なのに、先生たちが「食べろ!」って言うので、先生が後ろ向いた隙に、弟たちのを全部自分が食べて。「こんにゃくってなんだろう? ゼリーに砂が入ってる」って、慣れない食べ物ということもあって困惑したり。部屋に戻って、弟たちが安心して寝てる顔を見て、毎晩のように枕を顔に着けて、弟たちを心配させないように涙してました。なんでこんなところに俺たちを入れたんだって。その内、父親がなかなか会いに来れなくなって。久しぶりに来た時に、僕はすごい怒りがマックスで、父親をぶん殴ろうと思ったんですよ。「なんで俺たちをこんな所に入れたんだ!」って。先生たちに取り押さえられて注射されるんじゃないかって恐怖と、怒りが混ざって、メンタルがわけわからないところまで行ってたんですね。父親は、なんで子どもたちがこんなに恐れているのか分かっていなかったみたいなんです。そこには3ヶ月いたんですけど、脱走も考えましたね。4階から服とか毛布とかを結んでロープ代わりにして「デイビット、サンシロー、俺たち逃げるぞ!」って。でも、両親は俺たちが日本のどこにいるかわからなくなるって気がついて。そこを出られる日を待つことにしました。

伊島 すごい話だね。順を追って聞くと、お母さんがガーナの人で、お父さんが日本人。お父さんは竹中工務店の仕事でガーナに赴任していたんですね?

マイケル そうです。野口英世は最後ガーナで亡くなったんですけど、野口英世記念館を建てるために責任者として赴任していて母親と出会って結婚して、その記念館ができる前に僕が生まれて。

親父はそれを投げ捨てた瞬間、胡坐をかいて「kill me!」って言い出したんです。

伊島 3人ともガーナで生まれたの?

 

マイケル そうですね。なので日本語はまったく喋れませんでした。

 

伊島 お父さんとは何語で喋ってたの?

 

マイケル お父さんとは英語ですね。

 

伊島 お母さんも英語?

 

マイケル 英語ですね。ガーナはイギリスの植民地だったので。おばあちゃんとだけガーナ語だったんですけど、日本に来てから使わなくなって、ガーナ語は早くに忘れてしまいました。どこまで深く話していいかわからないですけど、父親が日本人なので、ある時50人くらいの盗賊に夜中襲われたんです。そういう事件はヨーロッパ系のハーフの子どもの家族にも起こっていまして。みんな襲われちゃうか殺されちゃうんですよ。

 

伊島 家が襲われるんだ?

 

マイケル その頃はいろいろクーデターとか内戦とかで荒れちゃってて、銀行が信用できないんですよ。なので、親父が銀行からお金を出して家に置いていたんですけど、盗賊の奴らはそれを知っていて来たんですよ。寝ようと思っていたら、7匹の番犬がみんな吠え出して、滅多に車なんか通らないのにトラックの音が聞こえて、ゴソゴソ喋ってるヤツらの声が天井からも聞こえて来て。親父が急にショットガンとピストルを持って部屋に入ってきて、僕らを引っ張ってベッドの下に隠したんです。窓の外にはブラジル製のピストルとか鎌とかを持ったバンダナのヤツらがいて、天井をぶっ壊して入って来ようとしてるヤツもいて。親父が窓の方に向けて撃とうとしたら、たまたまブラジル製のピストルが壊れていて、親父はそれを投げ捨てた瞬間、胡坐をかいて「kill me!」って言い出したんです。

 

伊島 お父さん凄いね。

 

マイケル そこにそいつらが後ろからも天井からも入って来て、ベッドの下でデビッドが泣き出したのを僕が口を抑えて。夢だと思ったけど夢じゃない。これは現実なんだって。胡坐かいてる親父は、ガーナか違う部族かどこの国から来たかもわからない奴ら8人くらいに囲まれて。そいつらが「Let’s kill」(殺そう)って言い出したところに、親父は「金は全部あっちの部屋にあるから持って行っていい。俺も殺していいから、子どもたちと奥さんだけには手を出すな!」って言ったんです。ガーナ人だったらパニクッで「やめてくれっ!」てなるところが、そういうノリの人を見たことがなかったのか、親父が胡坐かいてるから、絶対こいつは何もしないってわかったんでしょうね。そいつらはリビングに行って、物を全部持って行くわけですよ。それで運良く僕らは何事もなく助かったんですけど、別のドイツ人家族は殺されちゃったり。後から噂で聞いたんですけど警察もそいつらとグルだったようで、親父がふざけんなって激怒しまして、それで「もう日本に行こう!」って、借金までして家族で日本に渡りました。この事件のせいで一番下の弟はショックで2週間ぐらい口がきけなくなりましたね。

伊島 すごい話だね。ヘタしたらホントに今、生きていなかったかもしれないじゃない。

マイケル そうですね。もうその時には「こうやって人生終わるんだな」って感じましたし、そういう経験をしているので、日本に来てから同世代に喧嘩を売られてもまったく怖くなかったですね。

【少年時代の3兄弟】

伊島 盗賊が襲ってきた時、お母さんは?

マイケル お母さんは異変に気付いて、塀を飛び越えて電話をしに行きました。母親が残っていたらまた違うストーリーになってたかもしれないですね。

伊島 それはマイケルさんがいくつの時?

マイケル 8歳くらいの時。

伊島 下のデイビットさんは?

マイケル デイビットは6歳でサンシローが4歳。サンシローはまったく覚えてないみたいですね。施設にいた時、ある日デイビッドに英語で話しかけたら「マイケルごめん。オレ英語忘れちゃったんだよ」って言い出して。「サンシローは?」って聞いたら「オレはまだ英語学んでないよ」って。こいつら日本語覚えるのは早いけど、英語忘れるのも早いんだなって思いましたね。自分の年齢が英語を保ちながら日本語を覚えていられるギリギリの年代だったんでしょうね。それはけっこう寂しかったです。

伊島 じゃあ、下の二人は英語は話せないんだ。でも、子ども時代に国を移ると言葉以外でも苦労したでしょ。

マイケル 日本に来た時、母親が僕ら三人兄弟に「手を出せ」って言って「その手をひっくり返して、何が見える?」って聞くんです。「手だよ」って答えたら「違うよ。マイケル、デイビット、サンシロー、よく聞きなさい。この国ではこの肌の色であなたたちはすごく苦労するから覚悟しておきなさい」って言われて「なにこの世界?」って、気絶しそうになるくらいゾッとしました。施設に入る前、まだ母親と父親と暮らしてる時、外に出かけるといろいろ言われるわけですよ。「外人だ!アメリカ人だ!帰れ!」って。悪気はなかったかもしれないけれど、当時、言葉もわからない子どもからしても「アメリカ人か黒人かくらいの違いはわかるだろう」って思いましたね。

借金もあったし、プロになるんだって自分を洗脳してましたね。

伊島 その頃、まだアフリカ系の人たちは少なかった?

マイケル 養護施設でテレビを見ていても、肌の黒い人はウィッキーさんくらいしかいなかったですね。それを見た時「あ、日本にもいるんだ!」って驚いたんです。なにが言いたいかというと、当時は自分がこうなりたいっていう目標が他にはいなかったんです。日本では、僕たちも髪の毛クルクルなのにストレートパーマかけて、七三分けにしてサラリーマンにならなきゃいけないのかなって。こんなサラリーマンがいたら面白いし、ギャグにはなるかなとは思いましたけどね(笑)

伊島 それは確かに面白いね。

マイケル でも、養護施設の狭い世界にいた時「自分たち以外にも、必ず日本のどこかにハーフの人たちはいるはずだ。オレはそいつらに会っていろいろ話したい」って、そう思うようになりました。自分以外のハーフだっていろいろあったと思うから、そういう仲間たちに会って、将来一緒に音楽活動的なことを発信して行きたいって考えていました。

伊島 プロのサッカー選手もやっていたという話ですが。

マイケル ガーナではサッカーボールがなかったので、子どもたちは親の靴下とか新聞を丸めて包んでボール代わりにして、サッカーというかそういうストリートの遊びはやってました。日本に来てからは中学校にバレーボール部とサッカー部しかなくて、ちょうどJリーグが出来た頃だったのもあって、先生たちにマラドーナとかのビデオを見ろって言われたりして、サッカー部に入って3年やってプロになったという感じです。

伊島 すごいね。

マイケル もう必死でした。借金もあったし、プロになるんだって自分を洗脳してましたね。それしかないって。

伊島 借金っていうのはガーナで有り金ぜんぶ盗られちゃったから?

マイケル 飛行機代とかこっちに来た時の家の契約金とか、親戚やいろんな人にお金を借りて日本に来たので「マイケル、オレが返せなくなったら長男のおまえが返すんだぞ」って言われていて。お父さんが僕たちを助けたように、僕にも役目があったんだって思ってスッと入ってきましたね。「じゃあ、オレはプロのサッカー選手になってやろう」と。

伊島 10歳くらいで養護施設に入って、サッカーを始めたのはその頃ってことだよね。

マイケル 僕が中学の時にJリーグができて、カズさんとか、ラモスさんとかが大活躍している姿を見たんです。ラモスさんを見た時に「この人はハーフなのかな?」って。実際にはブラジル人だったんですけど、そういう人を見ると自分はエネルギーをもらえたので「オレはサッカー選手になる!」って決めたんです。その頃、たまたまあるコメンテーターの方に拾っていただいて「ドイツに留学してみないか」って言われたんです。それで、中学2年の時に1度ドイツに渡って、向こうの高校年代のチームでテストしたんです。そうしたら同じ年代のはずなのにみんなめっちゃデカいんですよ。身長2メートルとか。僕は当時の日本の養護施設では身体能力がダントツで、もうホントにアニメのヒーローのような感じだったんですけど、ドイツに行ったらすごいヤツらがいっぱいいるんです。ドイツの国中から、いろんな国から、アフリカから来てるヤツもいて、ドリブルで抜いた時にいきなりアゴになにかが当たって、なにかなと思ったら2メートル何センチかのヤツの膝だった。「膝がここに当たるのか!」って(笑)オレは日本では井の中の蛙だったんだってことをそこで初めて気づいたんです。

サッカー選手としてプレーしていた頃

伊島 急激に環境のレベルが上がったんだね。

マイケル でも、カズさんみたく、もっと海外のレベルの高い所に飛び込まないと、プロになっても一流の選手にはなれないんだって思って、ドイツで1年くらい揉まれて試合にも出られるようになって、ヨーロッパの大会で得点王2位になったりもしました。1番若かったけど、いろいろ鍛えられましたね。1対1でずっと一緒に練習していたすごいトルコ人がいて、こいつ俺とタメか同じくらいかって思ってたら、実は20歳くらいのオリンピック代表のトルコのキャプテンだったりして。「このレベルでそうなんだったら、オレは日本に帰ったら絶対いい結果出せる」って自信につながりました。それで、中3の時に日本に帰ってきて、Jリーグのテストを受けたら、エスパルス、ジェフ、グランパス、サンフレッチェと4チームに受かったんです。当時、ドイツに連れて行ってくれたコメンテーターの人が、エスパルスと当日のエスパルスのスポンサーだったJALをくっつけた方だったので「マイケル、オレ的にはエスパルスに入ってくれると顔が立つ」って言われてエスパルスに入りました。これが大人の世界かって(笑)。

伊島 そこからプロのサッカー選手になって、しかも相当レベルの高い選手だったわけじゃないですか。それはいつまで続けたの?

マイケル 17歳でエスパルスに入って24歳の時に引退しました。最後は九州のサガントスってチームだったんですけど、その時に親父から連絡が来て「マイケル、借金を全部返し終わったよ。手伝ってくれてありがとうね」って言われたんです。そう言われたらわけわかんないくらい力が抜けちゃって。オレ、それまで気がつかなかったけどけっこう大変だったんだなって気がついたんです。中学卒業したばっかりで、日本語もまだそんなにわからなかったから、当時、年棒1500万くらいあげるって言われて、サッカーを好きになってプロに入ったのに、でも、その後いろいろあって途中からサッカーが嫌になっちゃったんです。

伊島 でも、借金返すまでは続けたんだね。その後は?

僕の試合を見てベン・ジョンソンが

「サッカーを辞めて陸上に行ったら3ヶ月で日本で1位になれるよ」

って言ってたことを思い出したんです。

マイケル 音楽にもずっと興味があって、いつかやりたいなって思っていたんです。借金を返し終わって、親父に「お前なにになるんだ?」って聞かれて「音楽やる」って言ったら「お前の身体能力をどうやって音楽に使うんだよ」って言われました。引退しようと思ってたら、中田英寿をペルージャに連れて行った知り合いから電話がきて「マイケル、引退って言ってるけど、最後天皇杯でアントラーズとやった時の新聞みたか?アントラーズの監督が、お前のこと欲しがってるって書いてるよ」って言うんです。僕は「もういいよ」って断ったけど「じゃあダメ元で、ペルージャ受けてみるか?」って言われて、どうせダメだと思いながらも面白いかもな、イタリアも行きたいなっていのもあったので、それでペルージャに行ってテストで2週間いるはずだったんですけど、1日目の練習が終わった時に、ガウチって今は国から逃げてるマフィアみたいなお偉いさんに呼ばれて、出向いたら立派な机がある部屋に1人立ってる人がいて、その人が「Sign! Sign! I want you!」って言うわけですよ。

伊島 え、それは……。

マイケル 最初「やったー!」って思ったんだけど「いや、マイケル、待て。新人研修の時に学んだだろ。こういうのを簡単に書いちゃいけないし、お前がアイツの物になっちゃうぞ」って思い出して「代理人に電話するから待ってください」って言ったら「No! No! No! No problem. Just sign!」って言うから、もっと怪しいなと。そしたら、後ろから2メートルくらいのめっちゃデカイヤツが来たので、「Hotel! Agent come back」って言って、すぐにホテルに戻って、荷物まとめてチェックアウトして逃げたんですよ。逃げたのはいいけど、飛行機のチケットは2週間後だし、2週間イタリアでどうすんだよって途方に暮れて手帳を見てたら、そういえばJリーグの時、僕の試合を見てベン・ジョンソンが「サッカーを辞めて陸上に行ったら3ヶ月で日本で1位になれるよ」って言ってたことを思い出したんです。その時は、サッカーはボールがあるから楽しいのに走るだけじゃなぁ、って思ってたんですけど、でも、あのベン・ジョンソンに「困ったときにはイタリアにいるから」って言われていたことを思い出して、電話したら「おまえイタリアにいるのか。今すぐ来い。バスでナポリに来てそこからタクシー乗って来い。タクシーは10人くらいに聞いて1番安いやつにしろ」とかいろいろ教えてくれて。指定されたホテルに着いたら、本当にそこにベン・ジョンソンがいまして。それから1週間くらい、一緒に陸上のトレーニングをして、その1週間でもともと10秒8くらいだったのが10秒3くらいにまでなって。

伊島 100メートル?

マイケル はい。最終的には10秒1くらいにまでなって。僕的には時差ボケとかもあったからまだ行けそうだと思ったのに、ベン・ジョンソンは、それが僕の限界だと思ったらしくて話が噛み合わなくなってきた。そこで僕も「一回、日本に帰ってから考えます」って言って、それで日本に帰ってきました。

伊島 なんか、すごい話なんだけど。

ベン・ジョンソン氏と

養護施設にいたので、年の差とか障碍とか、あんまり違和感がなくて。

でも初対面の人からは、最初はたいてい怖がられますね(笑)

マイケル 帰国後はハーフの仲間たちを集めてカラオケでその時自分が抱えている問題とかを即興で吐きだしたりしながら、その中でも才能のあるヤツらを集めて、おそらく日本で最初のハーフグループ『Double Dogz Crew』を結成して、アングラのラップを始めたんです。最初は客が5人くらいだったけど、その後、テレビのヒップホップ番組で全国優勝したりして、やっぱりその時もハーフの良いところも悪いところもいろいろ見ましたね。みんな差別されていた側だから、変なエネルギーがあって、前に出たがっちゃうんですよ。自分が1番目立ちたいっていう精神や、女の子関係がめんどくさくなって。僕はプロサッカーでメンタルは鍛えられてたので、そういうことすると他の誰かに迷惑がかかるとかって分かっていたので「俺はめんどくさい。お前らで好きにやりなよ」って言って抜けました。その後もまた別のハーフのグループをやったり、歌をやったり、通訳をしたり、ヒップホップの雑誌のモデルをやったり、いろんな仕事させてもらいました。モデルも当時はライバルが少なくて、黒人のハーフだったらアイツだみたいな立ち位置になり、そこで出来たつながりを次の世代にパスしたりと、いろんなハーフの人に会ったりしていました。

伊島 養護施設でぼんやり考えていた夢をそこで叶えたんだね。キックボクシングもやってるって聞いたんですけど。

マイケル やってます。サッカーを辞めた後、凄く顔の広い友だちに「お前、絶対、魔裟斗に勝てるぞ」って、根拠もないことを言われて(笑)でも、したくもない喧嘩をいっぱいしてきたから、自分でも変な自信はあったんですよ。それで「山本“KID”徳郁ってやつがいるから、スパーリングしてみろよ」って言われてジムに連れて行かれたら、そこに小さい日本人がいて、その人がKIDさんで、彼にも「K1はマックスって言ってるけど、マイケルの方が向いてるかもしれないよ」と言われてしばらくトレーニングをしていたら、ある日、ウルフルズが所属している事務所の社長さんが、KIDさんとのスパーリングをに見に来て「マイケル君、ミーはな、君に投資したいねん」とか言うので、その社長さんに投資していただいて、空手の大会とか、キックボクシングとか、いろいろな試合に出場していい結果も残せたんですけど、いざ大きな試合に出るってなった時に、減量で身体の数値が悪く出てドクターストップがかかったんです。それで「やっぱりオレには音楽しかない」って思って、それから音楽に集中するようになったんです。

Double Dogz Crew

伊島 僕がミックスマガジンというメディアを始めるってことを東ちづるさんに話したら「じゃあぜひ矢野ブラザーズさんにインタビューしてくださいよ」って言われて。この間『月夜のからくりハウス』の撮影に行って舞台を観た時に、マイケルさんラッパーだし、なんとなく強面なだったんだけど、楽屋でダウンショーズの子たちと話してる姿を見ていたら、この人すごい優しい人なんだなって感じたんです。

マイケル 僕は養護施設にいたので、年の差とか障碍とか、あんまり違和感がなくて。でも初対面の人からは、最初はたいてい怖がられますね(笑)

伊島 そうでしょうね。矢野ブラザーズを始めたのは最近なんですか?

マイケル 矢野ブラザーズは5、6年くらい前からですね。僕がひととおりいろんなグループをやめた頃、次男のデイビットが「誕生日パーティーを開催するから、兄弟で集まって歌ってみないか」って言い出して。初めて3人でやってみたらけっこう大きい箱が満杯になって歌も反応がよかったので、それまでの路線からもっと人の為になるものにシフトチェンジしたくなったんです。ラップとかではなくて、一般の人にもわかる、ちゃんとしたメッセージがあるものをやりたいと思ったのが最初ですね。

伊島 デイビットさんとサンシローさんは音楽は元々やってなかったの?

マイケル 僕らは元々、養護施設でピアノを学んでいて、2人は本格的に先生についてやっていて、デイビットはバーでカバー曲を歌ったり作曲もしていました。僕もサッカーをやってる間も音楽はずっと頭にあって、東京にいるハーフの仲間たちとうまくコミュニケーションをとりながら、いろんな箱とコネクション作っておいてくれって伝えていたんです。それがちょうどサッカーを引退したタイミングでした。

伊島 今は二人で活動されていますが、兄弟だからやっぱりハーモニーは良いですよね。

マイケル そうですね。でも1人抜けるだけで、違うような曲になるので、そこはサンシローがいないと痛いですけどね。兄弟なので他人みたいに簡単に切るってことはできないので、様子を見ながらですね。

伊島 これからも矢野ブラザーズは3人でやって行くって気持ちではいるんですか?

マイケル そうですね。昔の僕だったら解散したかもしれないけど、歳を重ねていくと、そんなに単純な問題じゃないんだなと。自分たちの勝手で辞めるというのは無責任なことでもあると思っていて、それで、今は2人で全国を周っています。音楽活動は矢野ブラザーズで月に4、5本。それ以外に、10年くらい前から作詞作曲でAAAとかTWICEとかをやっていて、その印税が生活の基盤になっています。昔、叔父が『ここがヘンだよ日本人』ってビートたけしさんが外国人100人くらいとやってるテレビ番組に出ていて、今は芸能事務所も持っているんです。そこで、通訳とかいろんなビジネスの案件で、この人とこの人は合うんじゃないかなってブッキングしたり「こういうハーフの人探してるけどマイケル知らない?」って聞かれたりして、アーティストとかモデルを紹介したり現場に行ったりとかもやってます。

「俺たちのプリンセスをチャイニーズのお前が奪った」って、

酔っぱらいながら父の所に因縁つけてくる来る大男がいっぱいいたんです。

伊島 実はこのインタビューではいつも、「ミックスジュースを作るとしたら何を入れたいか」っていうのを聞いて、後で僕が実際作って写真を撮るんですけど、教えてもらえますか?

マイケル チョコレートとピーナッツとバナナですね。あとミルクです。

伊島 チョコレート使った人は初めてですね。ちょっとガーナっぽい感じですね。

マイケル かもしれないですね。

伊島 食べ物で言うと、最初日本に来た時は全然食べられなかったって話だったじゃないですか。ガーナではどういうものを食べてたんですか?

マイケル ガーナは日本の米とはちょっと違うけど、米もありますしヤムって芋系と、あとは鶏肉が多いです。実は日本と共通点もいっぱいあって、餅と同じようなのがあるんです。キャッサバっていう芋で同じようにやるんですよ。それが餅みたいになって、辛いトマトベースとか鶏肉とかニンニク、ジンジャーとかを使ってスープにするんです。思い出したら喉乾いちゃった。アフリカ料理ありますよ、六本木にも新宿にも。

伊島 昔、渋谷にガーナ料理の店があって、ぼくが東京に出てきた頃だから4、50年くらい前なんだけど、すごく辛いペッパースープっていうのがあって、それがめちゃくちゃ辛いんだけど美味しくて。唐辛子が何本も入っててね。それを完食するとお店に名前が貼り出されるんです。ぼくは結局、一度も完食できなくて貼られなかったけど(笑)

マイケル それ罰ゲームみたいな(笑)

母は今、その中のアカン族っていう部族の女王をやってるんです。

伊島 日本に来た時にはこんにゃくも豆腐も食べられなかったって言ってましたね。

マイケル 豆腐は甘い物だと思って裏切られちゃったんですよ。「あれ?これ甘くない。しかもみんなしょっぱい物をつけてる」って。豆腐は慣れたんですけど、味噌汁に入ってるキノコで伸びるヤツ。

伊島 なめこ?

マイケル はい。あとお茶もダメでした。ドブの水だと思ったんですよ。食べ物のクセも強いけど、僕、日本人って、体力的にもめっちゃ強い人たちだと思ってたんですよ。

伊島 日本人が体力的に強い?

マイケル なぜなら、ガーナにいた時、街を歩いていると父のことをガーナで人気だった母を奪った東洋人だと言って「俺たちのプリンセスをチャイニーズのお前が奪った」って、酔っぱらいながら父の所に因縁つけてくる来る大男がいっぱいいたんです。そういう時、父が「マイケル、デイビット、サンシローあっちに行ってろ」って言うので、向こうに行って隠れて見ていたら、相手の腕をひねって「Say sorry!」って謝らせてたんです。 だから、日本人は黒人より強いんだって思っていましたね。それで、日本に来て養護施設に入る時「やべーよ、お父さんみたいなヤツがいっぱいいるんでしょ」って、ちょっとビビってた。オレも「Say sorry!」ってやられたらどうしようって(笑)

伊島 それって、お父さんが相当すごいってことだよね。なにか武術とかやってたの?

マイケル 今、父は81歳なんですけど、多分、昔は相撲とか柔道とかも好きだったみたいですし、だから腕力が強い。母も、数十年前まではガーナで女子100メートルの記録を持ってたんです。

伊島 お父さんもお母さんも身体能力が高くて、そのふたりの間にさらにまたすごい身体能力のマイケルが生まれたってわけだね。このインタビューメディアでミックスの人たちの話を聞いていて面白いなって興味を持つのは、じつはその両親なんだよね。

マイケル すごくわかります。うちの両親もよく結婚したなって。違う国の人と結婚するって、華やかに聞こえるかもしれないけど、現実はそんなに甘くないですよ。両親とも変わった人だなって思います。

家族との貴重なショット

伊島 お母さんもガーナではかなり有名な人だったわけだよね。

マイケル ガーナにはいろんな部族があって、アシャンティっていう部族が一番デカいんですけど、母は今、その中のアカン族っていう部族の女王をやってるんです。

伊島 アカン族の女王!?

マイケル そうです。日本で言うとどういう立場かはわからないけど、たとえばなにか事件が起きたら、まずウチの母親の前で話をして、母親がどうするかを決めてるっていう。血筋で選ばれるので、僕らも王様にはなれるんですけど、僕らが王様になったとしても僕らの子どもは王様にはなれない。

伊島 え?

マイケル 女性が女王になればその子供は後継ぎになれるんですけど、男性が王様になってもその子供は王様にはなれないんですよ。

伊島 女系社会ってことだね。お父さんとお母さんの写真とかないの? もし載せてよければそれも載せたいですね。

マイケル 探してみます。でも5人で撮ったのはないですね。両親のツーショットは探せばあります。

伊島 意外と家族写真ってありそうでないものだよね。お父さんとお母さんが知り合った頃の写真とかあれば見たいな。

マイケル ぜひ見てもらいたいですね。

伊島 お願いします。今日はホントありがとうございました。

マイケルさんのご両親

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